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蓮の月 —愛する人を遺そうとした尼・貞心尼—  作者: 細川 雅堂
第四章 散

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第十八話 業の肯定

その年の晩夏、一人の若い僧が誠の庵を訪れた。


名だたる寺の弟子だという。


「貞心尼様。良寛様について物する詩文を、僭越ながらしたためました。ご一読いただき、朱を賜れればと」


差し出された草稿を、誠はしばらく見つめていた。

かつての誠であれば、迷わず筆を執っていたはずの場面である。

だが今、その手は動かなかった。


「……お気持ちは、有り難く存じます」


誠は、草稿に指一つ触れることなく、静かにそれを押し返した。


「なれど、それがしの朱など、もはや要りませぬ。あなた様が見た和尚様を、あなた様のままに、お書きなさいませ」


若い僧は戸惑った様子で、それ以上何も言えぬまま、草稿を胸に抱いて庵を辞していった。誠はその後ろ姿を、しばらく見送っていた。


数日後、庵に一人の参拝者が訪れた。

誠と気づいた様子もなく、若い参拝者は木村家より借りたという『良寛道人遺稿』を懐からのぞかせながら、傍らの者に語りかけていた。


「和尚様は、生涯一度も声を荒げなさらなかったとか。まこと、仏の御心そのままのお方であられたのですね」


誠は、その言葉を、縁側でひとり聞いていた。


かつてなら、その一言に、迷わず口を挟んでいただろう。


「否、和尚様も人であられた」と。


だが誠は、息を吸いかけて、それを喉の奥でそっと止めた。


参拝者の口ぶりには、いかなる悪意もなかった。

それはかつて、村人たちが「姉さ庵主」と誠を呼んだときの、あの無邪気さと、寸分違わぬものであった。


物語は、誠の手を離れた後も、こうして誰かの口によって、新しい形をまといながら生き続けていく。

それを正すことも、正さぬまま見送ることも、もはや誠一人の裁量にはなかった。


誠は何も言わず、ただ庭先に目を落とした。

夕暮れの光が、萩の花に淡く差している。


その静けさの中で、誠の肩から、長らく気づかぬまま背負い続けてきた何かが、音もなく降りていくようであった。


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