第十八話 業の肯定
その年の晩夏、一人の若い僧が誠の庵を訪れた。
名だたる寺の弟子だという。
「貞心尼様。良寛様について物する詩文を、僭越ながらしたためました。ご一読いただき、朱を賜れればと」
差し出された草稿を、誠はしばらく見つめていた。
かつての誠であれば、迷わず筆を執っていたはずの場面である。
だが今、その手は動かなかった。
「……お気持ちは、有り難く存じます」
誠は、草稿に指一つ触れることなく、静かにそれを押し返した。
「なれど、それがしの朱など、もはや要りませぬ。あなた様が見た和尚様を、あなた様のままに、お書きなさいませ」
若い僧は戸惑った様子で、それ以上何も言えぬまま、草稿を胸に抱いて庵を辞していった。誠はその後ろ姿を、しばらく見送っていた。
数日後、庵に一人の参拝者が訪れた。
誠と気づいた様子もなく、若い参拝者は木村家より借りたという『良寛道人遺稿』を懐からのぞかせながら、傍らの者に語りかけていた。
「和尚様は、生涯一度も声を荒げなさらなかったとか。まこと、仏の御心そのままのお方であられたのですね」
誠は、その言葉を、縁側でひとり聞いていた。
かつてなら、その一言に、迷わず口を挟んでいただろう。
「否、和尚様も人であられた」と。
だが誠は、息を吸いかけて、それを喉の奥でそっと止めた。
参拝者の口ぶりには、いかなる悪意もなかった。
それはかつて、村人たちが「姉さ庵主」と誠を呼んだときの、あの無邪気さと、寸分違わぬものであった。
物語は、誠の手を離れた後も、こうして誰かの口によって、新しい形をまといながら生き続けていく。
それを正すことも、正さぬまま見送ることも、もはや誠一人の裁量にはなかった。
誠は何も言わず、ただ庭先に目を落とした。
夕暮れの光が、萩の花に淡く差している。
その静けさの中で、誠の肩から、長らく気づかぬまま背負い続けてきた何かが、音もなく降りていくようであった。




