第十九話 静かなる歓喜
明治五年、冬の初め。
誠は、床の上で静かに目を閉じていた。
すでに幾日も、起き上がることは叶わなくなっている。
傍らには、見慣れぬ弟子が一人、静かに控えているだけであった。
意識が薄れゆく中、誠の脳裏に浮かんできたのは、あの『蓮の露』の頁ではなかった。丁寧に選び、磨き上げた、あの調和に満ちた唱和の歌々でもなかった。
浮かんできたのは――筆と和紙越しに見えた、和尚のあの眼差しであった。
すべてを見透かした上で、なお静かに細められていた、あの眼。墨の匂い。
文机に差し込んでいた、淡い日差し。
誠は、勝ったわけではなかった。
和尚を、正しく残せたのかどうかも、もはや分からない。
三十四年前に交わした約束も、切り落とした宛名も、朱を入れ続けた幾夜も、今はただ、遠い水面の輝きのように、誠の中を静かに流れていくだけであった。
罪は、消えてはいない。
誠はそれを、裁こうとも思わなかった。
(それほどまでに、私は)
それほどまでに、あの人を愛し、あの人を残そうとしてしまった。
ただ、それだけのことだったのだ。
長く握りしめていた何かが、指の先からほどけていく。
執着の殻が、音もなく崩れ落ちていく。
そこに残ったのは、悔いでも、誇りでもない。
ただ透明な、静かな解き放たれの感覚だけであった。
散らばった良寛の気配――誠の知らぬところで、誰かの胸に、誰かの言葉として、無数に生き続けているであろう和尚の欠片。
それらすべてを、今はただ、愛おしく思った。
窓の外に広がる、この世界の淡い光を抱きしめるように、誠は大きく息を吸い込んだ。
「――スゥー」
その一息とともに、誠はすべてを手放し、静かに息を引き取った。
本作『蓮の月』に登場する貞心尼、良寛、そして山田静里、蔵雲(龍海院蔵雲)は、いずれも実在した人物である。貞心尼が良寛の没後に歌集『蓮の露』を編んだこと、山田静里がその外護者として貞心尼を生涯にわたり支え、柏崎の大火で焼け出された貞心尼のために庵を寄進したこと、そして蔵雲が良寛の没後三十六年を経て『良寛道人遺稿』を世に出したこと――これらはすべて、史料に残る事実である。
一方で、本作の骨格をなす貞心尼の内面――愛する者の言葉を選び、削り、自らの見たい姿へと磨き上げていく、その静かな執着と葛藤――は、史料の余白を、著者の想像によって埋めたものである。良寛からの手紙の宛名を切り落とす場面、山田静里の賛辞に潜む刺、蔵雲との朱筆をめぐるやり取り、そして終盤の「朱筆を執らない」「訂正しない」という選択――これらはいずれも、史実の記録には見出せない、著者による創作である。
とりわけ蔵雲については、彼が良寛の遺稿編纂に生涯を捧げた事実は確かだが、その動機として本作が描いた「若き日に良寛を訪ねる機会を逸した悔恨」は、史料に基づかない、著者の想像による人物造形であることを、ここに明記しておきたい。実在の高徳の僧を、一つの物語の都合によって輪郭づけてしまったことについて、蔵雲その人への敬意を込めて、創作である旨を申し添える。
歴史の記録は、多くを語らない。それは語られなかった人々への不誠実ではなく、むしろ、語られなかった部分にこそ、後世の者が想像力によって近づく余地が残されている、ということでもあるだろう。本作もまた、貞心尼という一人の人間の業を、著者なりに想像し、書き記したものに過ぎない。
史実と創作の境をここに示すことは、あるいは物語の魔法を一部損なう行いかもしれない。それでも、実在した人々の生を借りて物語を紡ぐ以上、この一線だけは、著者として引いておきたいと思う。
細川雅堂




