第十七話 風化する宛名
明治四年の秋、誠は七十四の歳を数えていた。
かつて誠を知る者たちの多くは、すでにこの世を去っている。
「貞心尼」というその名を、正しく覚えている者は、もはや里にもほとんどいなくなっていた。
障子越しに差し込む光を頼りに、誠はふと、庵の柱に目をやった。
長年の風雪に晒され、色褪せた木目――これもまた、静里から受け取ったまま、変わらずここにある。
あの人が遺してくれたものは、こうして誠を包み続けているというのに、あの人自身の記憶は、里の誰の口からも、もはや語られることがない。
ある日、誠は久方ぶりに文箱を開けた。
長らく手を触れずにいた奥の一角――そこに、あの懐紙に包まれた紙片が、変わらぬ姿でしまわれている。
誠はそれを取り出し、震える指で丁寧に開いた。
「貞心」――かつて自分の指で切り離した、その二文字。
だが今、誠はその紙片を見つめても、以前のような重みを感じなかった。
この二文字が誰を指すのかを知る者は、もはや誠一人を除いて、どこにもいない。
秘密は、隠すべき相手を失って初めて、ただの古い紙切れへと変わっていた。
(これは、もう――)
握りしめていた手に、誠はゆっくりと力を緩めた。
守るべきものが消えたのなら、これを握り続ける意味も、また消えたのだ。
それは敗北の感覚ではなかった。
むしろ、長らく強張っていた指が、ようやく解けていくような、静かな安らぎであった。
誠は紙片を懐紙ごと、そっと文箱の中に戻した。
もう、それを取り出して確かめる必要は、感じなかった。
もう一つ、誠の中には、長らく手放せずにいたものがあった。
『蓮の露』を編んだあの日から、誠はずっと、和尚の言葉を正しく世に伝えられるのは自分だけだという確信を、胸の内に抱き続けてきた。
蔵雲の草稿に朱を入れたときも、その確信が誠の筆を導いていた。
だが、あの木版の一冊は、すでに誠の手を離れ、見も知らぬ幾百の読み手のもとへと渡っている。誠がどれほど「これが正しい和尚様の姿だ」と信じたところで、その一冊を手にした者たちは、それぞれの心で、それぞれの和尚を思い描いていくのだろう。
(私だけが知っている、というのも――)
その確信もまた、あの半券と同じように、いつの間にか色褪せ、輪郭を失いつつあることに、誠は静かに気づいていた。
正しさを一人で背負い続けることに、もはや以前ほどの切実さはなかった。
夕刻、誠は文箱の蓋を閉じた。
かつてのような、ぴたりと閉ざす確かな手応えではなく、ただ静かに、蓋を合わせるだけの、軽い仕草であった。
障子越しに差し込む秋の陽が、誠の膝の上に、淡い影を落としていた。




