第十六話 木版の良寛
慶応三年、初夏。
ついに、木版刷りの一冊が誠のもとへと届けられた。
『良寛道人遺稠』。
表紙をめくる誠の指先は、かすかに震えていた。
長い歳月をかけて選び、磨き、朱を入れ続けてきた言葉の数々が、今、木版という不動の形をもって、誠の手の中にある。
頁を繰るごとに、見知った歌が、見知った詩偈が、整然と並んでいる。
誠はそれらを、一つ一つ確かめるように読み進めていった。
ある頁で、誠の手が止まった。
かつて蔵雲が持ち込んだ、あの泥にまみれた托鉢の逸話――誠が朱を入れ、選から外したはずのものだ。頁のどこにも、その逸話の影はない。
代わりにそこにあるのは、誠が「和尚様の御徳を損なわぬ」と判じた、調和に満ちた詩偈の数々であった。
(確かに、これは私が――)
誠の目に映る一頁一頁が、まぎれもなく、誠自身の朱筆の跡をそのまま映し取ったものだった。
蔵雲が集めた雑多な言葉の海から、誠がすくい上げ、誠が形を与えたものだけが、こうして版木に刻まれ、幾百、幾千という部数となって、これから世に散らばっていく。
誠はしばらくの間、その事実の重みを、ただじっと受け止めていた。
やがて頁の最後に至り、誠は静かに書を閉じた。
膝の上に置いたその重みは、思いのほか軽い。
だが、そこに込められたものの重さは、誠にしか分からないものであった。
見知らぬ人々の手を、これから幾つも経ていくのだろう。
書肆の店先で、誰かがこの一冊を手に取り、そこに記された和尚の言葉を、それぞれの胸に刻んでいく。
彼らが出会う和尚は、もはや誠だけのものではない。
(それでいい)
そう思おうとする自分と、まだどこかで手放しきれずにいる自分とが、誠の内側で、静かにせめぎ合っていた。
窓の外では、初夏の風が、若葉を揺らしていた。
誠はしばらくその音に耳を傾けてから、書物を文机の上へと、そっと置いた。




