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蓮の月 —愛する人を遺そうとした尼・貞心尼—  作者: 細川 雅堂
第四章 散

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第十六話 木版の良寛

慶応三年、初夏。


ついに、木版刷りの一冊が誠のもとへと届けられた。


『良寛道人遺稠』。


表紙をめくる誠の指先は、かすかに震えていた。

長い歳月をかけて選び、磨き、朱を入れ続けてきた言葉の数々が、今、木版という不動の形をもって、誠の手の中にある。


頁を繰るごとに、見知った歌が、見知った詩偈が、整然と並んでいる。

誠はそれらを、一つ一つ確かめるように読み進めていった。


ある頁で、誠の手が止まった。

かつて蔵雲が持ち込んだ、あの泥にまみれた托鉢の逸話――誠が朱を入れ、選から外したはずのものだ。頁のどこにも、その逸話の影はない。

代わりにそこにあるのは、誠が「和尚様の御徳を損なわぬ」と判じた、調和に満ちた詩偈の数々であった。


(確かに、これは私が――)


誠の目に映る一頁一頁が、まぎれもなく、誠自身の朱筆の跡をそのまま映し取ったものだった。

蔵雲が集めた雑多な言葉の海から、誠がすくい上げ、誠が形を与えたものだけが、こうして版木に刻まれ、幾百、幾千という部数となって、これから世に散らばっていく。


誠はしばらくの間、その事実の重みを、ただじっと受け止めていた。


やがて頁の最後に至り、誠は静かに書を閉じた。

膝の上に置いたその重みは、思いのほか軽い。

だが、そこに込められたものの重さは、誠にしか分からないものであった。


見知らぬ人々の手を、これから幾つも経ていくのだろう。

書肆の店先で、誰かがこの一冊を手に取り、そこに記された和尚の言葉を、それぞれの胸に刻んでいく。

彼らが出会う和尚は、もはや誠だけのものではない。


(それでいい)


そう思おうとする自分と、まだどこかで手放しきれずにいる自分とが、誠の内側で、静かにせめぎ合っていた。


窓の外では、初夏の風が、若葉を揺らしていた。

誠はしばらくその音に耳を傾けてから、書物を文机の上へと、そっと置いた。


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