第十五話 共犯の書
作業は、いよいよ大詰めを迎えていた。
選び抜かれた詩偈が、蔵雲の手によって一冊の書物としての体裁を整えられていく。
誠は、その校正刷りを幾度も読み返しては、細部に至るまで目を光らせていた。
ある夜、蔵雲が筆を置いた。
すでに遅い刻限であったが、灯りはまだ消えていない。
蔵雲は、自らの指先を見つめていた。
あの時と同じ、微かに強張った指の動き。誠がそれに気づいて口を開こうとした矢先、蔵雲の方が先に、静かに語り始めた。
「……貞心尼様は、幾度、和尚様の御前に参られましたか」
問いかけながらも、蔵雲は誠の答えを待たなかった。
「それがしは……一度もございませぬ」
誠は、手にしていた反故を膝の上に置いた。
「和尚様がまだ島崎においでの頃、それがしは幾度も、庵を訪ねようと思い立ちました。じゃが、その度に――『まだ、この身では相見える資格がない』と、それだけを言い訳に、一夜を、二夜を、先延ばしにいたした。気づいた時には、あの御方は、もう」
蔵雲の声が、そこで一度途切れた。
灯芯の爆ぜる音だけが、しばしの間を埋めた。
「謙遜など、聞こえの良い言葉にございます。あれは、ただの臆病でございました」
誠は、何も言わなかった。
ただ、蔵雲の指先――かつて庵の戸に伸ばされることのなかった、その指先を、じっと見つめていた。
三十四年もの歳月をかけて、なお良寛の言葉を追い続ける蔵雲の執念の底に、こうした悔いが横たわっていたことを、誠はこの時初めて知った。
「蔵雲殿」
誠は静かに声をかけた。蔵雲が顔を上げる。
「私も、御声を荒げられた和尚様を、この書からは除いてしまいました」
その言葉に、蔵雲の目に、わずかな驚きが浮かんだ。誠は続けた。
「間に合わなんだ人と、間に合いすぎた人と――どちらが罪深いのでございましょうね」
蔵雲は、その問いにすぐには答えなかった。
やがて、校正刷りの束にそっと手を置き、言葉を選ぶように口を開いた。
「これは、和尚を守るためではなく、和尚を私たちの手の中に留めておくための本かもしれませぬな」
誠は、その一言を、しばらく胸の中で反芻していた。
否定する言葉は、出てこなかった。
灯りの下、二人の間に置かれた校正刷りは、これまでと変わらぬ静けさでそこにあった。だが、それを見つめる誠の目に、もはや先ほどまでの確信はなかった。




