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蓮の月 —愛する人を遺そうとした尼・貞心尼—  作者: 細川 雅堂
第三章 疑

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第十四話 「……怒ったことも、ございました」

その夜も、朱筆の作業は静かに続いていた。


蔵雲が差し出す反故に、誠が目を通し、必要とあらば朱を入れる。

その繰り返しが、幾夜も重ねられてきた。

慣れた手つきで、誠は次の一葉を手に取った。


蔵雲は、しばらく黙って誠の手元を見つめていたが、やがて、ぽつりと問うた。


「貞心尼様は……和尚様が、御声を荒げられるのを、御覧になったことがございますか」


誠の筆が、紙の上で止まった。


「一度も――」


そう答えかけた誠の口から、続きの言葉が出てこなかった。


一度も、ない。

そう言い切ろうとした自分の内側で、何かが静かに引っかかっていた。記憶の底、ずっと奥にしまい込まれていたはずの光景が、誠の中でふと、輪郭を持ち始める。


ある冬の日。

弟子の一人が、和尚の詩稿を誤って火にくべてしまった時のこと。

あの穏やかな和尚が、珍しく声を荒げ、後になって己の狭量を恥じるように肩を落としていた姿。誠はその一部始終を、確かに、この目で見ていた。


だが、それは『蓮の露』のどこにも記されていない。

誠自身の手で、選から外されていたのだ。


朱筆を握る誠の指先が、かすかに震え始めていた。


(私は――)


蔵雲に向けてきた自分の言葉が、不意に耳の奥で反響する。


「俗人や、和尚様を知らぬ者が書いたものは、かえって御徳を損なう」。


あの時、誠は正論を語っているつもりであった。

だが、それは、あの霙の夜より前――誠自身が、幾度となく繰り返してきた作業と、寸分違わぬものではなかったか。


削り、選び、磨き上げる。

愛ゆえに。


自分がしていることは、蔵雲に対しても、そして三十四年前の和尚に対しても、まったく同じことだったのだ。


誠は、ゆっくりと顔を上げた。

蔵雲が、じっとこちらを見つめている。


沈黙が、灯りの揺らぐ部屋に満ちた。

やがて誠は、絞り出すように、静かに言った。


「……怒ったことも、ございました」


その一言を発した誠の声は、かすかに掠れていた。

蔵雲は何も言わず、ただ小さくうなずいた。


朱筆を持つ誠の手の中で、筆先の墨が、紙に触れぬまま、ゆっくりと乾き始めていた。


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