第十四話 「……怒ったことも、ございました」
その夜も、朱筆の作業は静かに続いていた。
蔵雲が差し出す反故に、誠が目を通し、必要とあらば朱を入れる。
その繰り返しが、幾夜も重ねられてきた。
慣れた手つきで、誠は次の一葉を手に取った。
蔵雲は、しばらく黙って誠の手元を見つめていたが、やがて、ぽつりと問うた。
「貞心尼様は……和尚様が、御声を荒げられるのを、御覧になったことがございますか」
誠の筆が、紙の上で止まった。
「一度も――」
そう答えかけた誠の口から、続きの言葉が出てこなかった。
一度も、ない。
そう言い切ろうとした自分の内側で、何かが静かに引っかかっていた。記憶の底、ずっと奥にしまい込まれていたはずの光景が、誠の中でふと、輪郭を持ち始める。
ある冬の日。
弟子の一人が、和尚の詩稿を誤って火にくべてしまった時のこと。
あの穏やかな和尚が、珍しく声を荒げ、後になって己の狭量を恥じるように肩を落としていた姿。誠はその一部始終を、確かに、この目で見ていた。
だが、それは『蓮の露』のどこにも記されていない。
誠自身の手で、選から外されていたのだ。
朱筆を握る誠の指先が、かすかに震え始めていた。
(私は――)
蔵雲に向けてきた自分の言葉が、不意に耳の奥で反響する。
「俗人や、和尚様を知らぬ者が書いたものは、かえって御徳を損なう」。
あの時、誠は正論を語っているつもりであった。
だが、それは、あの霙の夜より前――誠自身が、幾度となく繰り返してきた作業と、寸分違わぬものではなかったか。
削り、選び、磨き上げる。
愛ゆえに。
自分がしていることは、蔵雲に対しても、そして三十四年前の和尚に対しても、まったく同じことだったのだ。
誠は、ゆっくりと顔を上げた。
蔵雲が、じっとこちらを見つめている。
沈黙が、灯りの揺らぐ部屋に満ちた。
やがて誠は、絞り出すように、静かに言った。
「……怒ったことも、ございました」
その一言を発した誠の声は、かすかに掠れていた。
蔵雲は何も言わず、ただ小さくうなずいた。
朱筆を持つ誠の手の中で、筆先の墨が、紙に触れぬまま、ゆっくりと乾き始めていた。




