↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
蓮の月 —愛する人を遺そうとした尼・貞心尼—  作者: 細川 雅堂
第三章 疑

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
13/19

第十三話 朱筆の作法

蔵雲が集めてきた反故は、思いのほか多岐にわたっていた。


弟子たちの覚え書き、村人から聞き取った逸話、和尚が戯れに認めた落書きめいた一枚まで。誠はそれらを一つ一つ、丁寧に読み解いていった。


「これは……」


誠の筆先が、ある一葉の上で止まった。

托鉢の途中、川に落ちて泥まみれになった和尚が、通りかかった童らに大笑いされたという逸話であった。


誠は、迷わず朱を入れた。


「蔵雲殿。これは、収めぬ方がよろしいでしょう」


「しかし、これも良寛様の御姿には違いなく――」


「泥にまみれ、童に笑われる姿を、後の世の者が読んで、何を思いましょうか。和尚様の御徳を、正しく伝えるためにこそ、選ぶべきものと、そうでないものとがございます」


誠の声には、揺るぎがなかった。

蔵雲はしばらく誠の朱筆の動きを見つめていたが、やがて小さくうなずき、その一葉を脇へと除けた。


作業は幾日にもわたって続いた。

誠の朱は、次から次へと反故の上に走った。俗な失敗談。老いを嘆く弱音めいた一句。人間らしい戸惑いの滲む走り書き――そのどれもが、誠の筆によって静かに、しかし確実に、選から外されていく。


蔵雲は、時折わずかに眉を寄せることはあっても、誠の判断に異を唱えることはなかった。誠の、和尚への近しさに、一目置いているようであった。


ある夜、誠が一葉に朱を入れ終え、それを蔵雲へと差し出した時のことである。

蔵雲はその紙を受け取ろうとして、ふと手を止めた。


自らの指先を、じっと見つめている。


灯りに照らされたその指は、微かに強張っているように見えた。

誠が怪訝に思い、声をかけようとした矢先、蔵雲は小さく首を振り、何事もなかったかのように紙を受け取った。


「……いえ。何でもございませぬ」


誠は、それ以上は問わなかった。

再び文机に向かい、次の一葉を手に取る。

朱筆を握る誠の指先には、迷いの色は微塵もなかった。


灯芯が、また一つ、小さく爆ぜた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。