中編② 王宮という世界
スキルを使うのはもう少し先になりそうです...
朝食を終えたアルベルトは、ナプキンで口元を拭うと、小さく息を吐いた。
食器を片付けるリファーリアの動きには一切の無駄がない。
皿を重ねる音さえほとんど聞こえず、まるで長年舞台で磨き上げられた所作のようだった。
アルベルトは思わず見入ってしまう。
(……すごい。)
(これも教育の賜物なんだろうな。)
現代日本にもホテルマンや高級旅館の仲居など、美しい所作を身につけた人はいる。
だが、目の前の彼女はそれとは少し違う。
"王族に仕える者"として幼い頃から叩き込まれた礼儀。
一つ一つの動作に、王家の歴史そのものが宿っているように感じられた。
「アルベルト様?」
視線に気付いたリファーリアが優しく微笑む。
「どうかなさいましたか?」
「あ……。」
危ない。
また考え込み過ぎていた。
「リファーリアはさ…」
「はい。」
「ずっと王宮にいるの?」
五歳らしい素朴な疑問として尋ねる。
リファーリアは嬉しそうに微笑んだ。
「はい。私は幼い頃から王宮で教育を受けてまいりました。」
「小さい頃から?」
「七歳より侍女見習いとなり、礼儀作法や家事、読み書きなどを学びました。」
七歳。
まだ小学校に入ったばかりの年齢だ。
その頃から働く準備を始める世界なのだと、アルベルトは改めて実感する。
「大変だった?」
リファーリアは少し考えてから答えた。
「そうですね……。」
「厳しい先生方もおられました。」
「何度も失敗しました。」
「何度も泣きました。」
そう言って少し照れ臭そうに笑う。
「ですが今では、あの頃の教えが私の支えになっております。」
その笑顔を見て、アルベルトは胸の奥が少し温かくなる。
(この人は仕事を誇りに思ってる。)
前世でもそういう人はいた。
腕のいい大工。
鉄筋職人。
左官職人。
皆、自分の仕事に誇りを持っていた。
どんな時代でも、本当に国を支えるのは、そういう人たちなのだろう。
アルベルトはゆっくりベッドから足を下ろした。
床に足が触れる。
ひんやりとした石の感触が伝わる。
(冷たい。)
夏なら心地いい。
しかし冬になればかなり厳しいだろう。
無意識に視線が床へ向く。
大きな石板。
目地はきれいに揃えられている。
だが隙間には微かな段差がある。
(石工の技術は高い。)
(でも断熱って概念はほぼないな。)
建物を見るたび、改善点が頭に浮かぶ。
これはもう職業病だった。
「歩けそうですか?」
リファーリアが心配そうに尋ねる。
「うん。」
立ち上がる。
しかし五歳の身体は思った以上に小さい。
視界も低い。
テーブルがやけに大きく見える。
(この感覚には慣れそうにないな……。)
二歩。
三歩。
少しふらつく。
するとリファーリアがすぐ隣へ来た。
「ご無理はなさらないでください。」
「ありがとう。」
自然と手を差し出す。
リファーリアは少しだけ驚いた顔をしたが、すぐ優しく手を握った。
温かい。
柔らかい手だった。
アルベルトは部屋の隅に置かれた一枚の姿見へと目を向けた。
縦に長い鏡。
磨き上げられた銀の縁には、蔦を模した繊細な彫刻が施されている。
現代のような歪みのない鏡ではない。
少しだけ輪郭が揺らぎ、映る景色もどこか柔らかい。
それでも、人の姿を映すには十分だった。
アルベルトはゆっくりと歩き出す。
五歳の足取りは思っていた以上に短く、数歩進むだけで鏡の前へたどり着いた。
そして――。
「……。」
そこに立っていたのは、一人の幼い少年だった。
肩まで届く柔らかな金髪。
陽の光を受けて淡く輝き、まるで金糸のように揺れている。
肌は雪のように白く、まだ幼さの残る頬はふっくらとしていた。
そして何より目を引くのは、その瞳。
燃え盛る炎ではない。
血のような赤でもない。
宝石のルビーを思わせる、深く澄んだ緋色。
吸い込まれそうなほど美しいその瞳が、こちらを見返していた。
「……これが。」
小さく呟く。
「俺……か。」
思わず頬へ触れる。
鏡の中の少年も同じように手を動かした。
柔らかな肌。
幼い指。
まだ剣を握り込んだことのない、小さな掌。
前世では節くれ立ち、傷だらけだった手とはまるで違う。
現場では資材を運び、墨を打ち、図面を持って走り回った。
冬にはひび割れ、夏には日に焼けた。
そんな日々を過ごした手は、もうどこにもない。
(本当に……。)
(俺は死んだんだな。)
その事実を、鏡は何よりも雄弁に物語っていた。
不思議と恐怖はなかった。
あるのは、静かな実感だけ。
アルベルトは鏡越しに自分の瞳を見つめ続ける。
緋色。
前世では一度も見たことのない色。
どこか神秘的で、王族らしい威厳すら感じさせる。
しかし、その中に宿っているのは間違いなく自分だった。
休日には本を読み、歴史や経済を学び、「いつか何かを成し遂げたい」と漠然と思いながら、それを叶えられなかった男。
その記憶も、後悔も、この身体の中に確かに残っている。
アルベルトは小さく息を吐いた。
(……若いな。)
思わず漏れた感想に、自分で苦笑してしまう。
前世の感覚からすれば、鏡の中の少年は幼すぎた。
身長も低い。
腕も細い。
少し力を入れただけで折れてしまいそうなくらい華奢だ。
だが、その身体には無限の未来がある。
何十年という時間が残されている。
前世では、社会人になってからの五年間は、あっという間だった。
毎日が仕事に追われ、気づけば二十代後半。
「何かしたい」と思いながら、何もできずに時間だけが過ぎていった。
だからこそ。
今の自分には、人生をやり直すだけの時間がある。
(……焦る必要はない。)
鏡の中の少年へ語りかけるように呟く。
(まずは一つずつだ。)
知ること。
学ぶこと。
信頼を築くこと。
その積み重ねが、きっと未来を変える。
アルベルトはもう一度、自分の瞳を見つめた。
緋色の瞳の奥に宿るのは、幼子らしい無邪気さではなく、静かな覚悟。
誰にも気づかれないほど小さな火種。
しかし、それは決して消えることのない炎だった。
「アルベルト様?」
背後からリファーリアの優しい声が聞こえる。
振り返ると、彼女は少し心配そうな表情で立っていた。
「鏡をご覧になって、どうかなさいましたか?」
アルベルトは一瞬だけ考え、穏やかに微笑む。
「ううん。」
「少しだけ……。」
「自分の顔を忘れてた気がして。」
リファーリアはくすりと笑う。
「それはきっと、お怪我の影響ですね。」
「ですが、アルベルト様は今日もとてもお可愛らしいですよ。」
その言葉に、アルベルトは照れくさそうに頬を掻いた。
(……可愛い、か。)
いい歳だった男だった自分には、どうにも慣れない評価だった。
だが、その姿もまた、今の自分なのだ。
アルベルトは鏡へ最後に一度だけ視線を送り、小さく頷いた。
(よろしく頼む。)
(アルベルト・ヴァルデリア。)
「少し、お部屋の外をご覧になりますか?」
「外?」
「ずっとお休みになられていましたので。」
アルベルトは少し考える。
本当なら王宮中を歩き回りたい。
構造も、人も、文化も見たい。
だが焦る必要はない。
「少しだけ。」
「かしこまりました。」
リファーリアが扉を開ける。
外には二人の近衛騎士が立っていた。
銀色の鎧。
腰には長剣。
二人はアルベルトを見るなり胸に拳を当てた。
「アルベルト殿下。」
低く、力強い声が廊下へ響く。
アルベルトも小さく会釈を返す。
その瞬間。
(重い。)
そう感じた。
彼らは自分を「子ども」として見ていない。
第二王子として接している。
その事実が、幼い身体には少しだけ重かった。
王宮の廊下へ一歩踏み出す。
思わず息を呑んだ。
天井は高く、何本もの白い石柱が並ぶ。
赤い絨毯が一直線に伸び、その両脇には鎧姿の兵士や侍女たちが静かに行き交っている。
窓から差し込む朝日が床に美しい模様を描いていた。
(……すごい。)
映画でもゲームでも味わえなかった圧倒的な実在感。
石の匂い。
磨かれた木材の香り。
人々の足音。
遠くから聞こえる鐘の音。
そのすべてが、この世界が現実であることをアルベルトへ突きつけてくる。
前世は終わった。
ここが、自分の生きる世界なのだ。
アルベルトは小さく拳を握る。
胸の奥で、静かな野望が再び灯る。
(この王宮も。)
(この国も。)
(いつかもっと、人が暮らしやすい場所にしてみせる。)
まだ誰にも聞こえない、小さな決意だった。
その時だった。
廊下の向こうから、少年の朗らかな笑い声が聞こえてきた。
「アル!」
その声に、リファーリアがすぐに姿勢を正す。
「エルメウス殿下……。」
金色の髪を揺らしながら、一人の少年がこちらへ駆け寄ってくる。
アルベルトより四つ年上。
王族らしい気品を漂わせながらも、その表情には弟を案ずる兄の優しさがあふれていた。
アルベルトは自然とその名を思い出す。
――エルメウス・ヴァルデリア。
第一王子にして、自分の兄。
彼との出会いが、アルベルトの新しい人生をさらに大きく動かし始めようとしていた。
初投稿になります。
誤字脱字や言い回しなど、気になる点があればどんどんご意見下さい!!




