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中編③ 兄という存在

「アル!」


 廊下に響いたその声は、王宮の静寂を破るほど大きなものではなかった。


 だが、その声音には心からの安堵が込められていた。


 アルベルトは自然と声のした方へ顔を向ける。


 廊下の向こうから、一人の少年がこちらへ歩いてくる。


 いや、歩いているつもりなのだろうが、心配が勝っているのか、その足取りは駆け足に近い。


 年齢は九歳ほど。


 陽光を受けて輝く金色の髪。


 王家の血を感じさせる整った顔立ち。


 そして、落ち着いた蒼青の瞳。


 豪華な衣服を身に纏ってはいるが、その表情は王子というより、弟を案じる一人の兄だった。


 その姿を見た瞬間、アルベルトの脳裏に記憶が流れ込む。


 幼い頃、一緒に庭園を歩いたこと。


 木剣の稽古で転んだ自分を助けてくれたこと。


 夜、怖い夢を見て泣いたとき、頭を撫でてくれたこと。


 それは、この身体が持っていた記憶だった。


 そして、その名も。


 エルメウス・ヴァルデリア。


 ヴァルデリア王国第一王子。


 自分の兄。


「アル!」


 エルメウスはアルベルトの前まで来ると、すぐに膝を折って目線を合わせた。


 その蒼い瞳が、頭から足先まで弟を確かめるように動く。


「もう体は大丈夫なのか?」


 心配そうな声だった。


 アルベルトは小さく頷く。


「うん。」


「まだ少し頭がぼんやりするけど……。」


 そう答えると、エルメウスは胸をなで下ろした。


「本当に良かった……。」


 その一言に、嘘偽りはなかった。


 アルベルトは少し驚く。


(……こんなに心配してくれてたのか。)


 前世では一人暮らしだった。


 家族とは年に数回連絡を取る程度。


 仕事が忙しく、「元気だよ」と短いメッセージを送るだけの日々だった。


 誰かがここまで自分を心配してくれた記憶は、ずいぶん昔のことのように思える。


 エルメウスは少し困ったように笑った。


「昨日は本当に驚いたんだ。」


「庭園で転んで動かなくなったって聞いて、剣の稽古を途中で抜け出してきたんだぞ。」


「父上も医師を何人も呼ばれていた。」


 アルベルトは黙って聞いていた。


 そこまで大事になっていたとは思わなかった。


「……ごめん。」


 その言葉に、エルメウスは目を丸くした。


「謝ることじゃない。」


 優しく笑いながら、弟の頭へ手を伸ばす。


 ぽん、と軽く撫でる。


「無事だった。それだけで十分だ。」


 その手は温かかった。


 アルベルトは思わず目を細める。


(兄貴……か。)


 前世には兄はいなかった。


 だから、この感覚は初めてだった。


 不思議と嫌ではない。


 むしろ、心地よい。


「エルメウス殿下。」


 リファーリアが静かに口を開く。


「医師より、アルベルト様は本日あまりご無理をなさらないよう申し付かっております。」


「ああ、もちろんだ。」


 エルメウスは素直に頷いた。


「今日は庭を散歩するくらいにしておこう。」


 そこでアルベルトはふと疑問を抱く。


「兄上は?」


「うん?」


「今日は何をするの?」


 エルメウスは少し照れくさそうに笑った。


「今日は午前中が剣術、午後は政治学だ。」


「その後は父上との会議の見学。」


「夕方には礼法の授業かな。」


 さらりと言ったが、予定はびっしりだった。


(九歳でこれか……。)


 王太子教育。


 その重さが伝わってくる。


「忙しいんだね。」


「はは。」


 エルメウスは苦笑した。


「王になるには覚えることが山ほどあるからな。」


「先生方は容赦してくれない。」


 その言葉には愚痴ではなく、責任を受け入れている響きがあった。


 アルベルトは兄を見つめる。


(ちゃんと努力してる人なんだ。)


 前世の知識では、王族というと遊んで暮らしている印象を持たれがちだ。


 だが目の前の兄は違う。


 誰よりも勉強し、誰よりも鍛えられている。


 だからこそ、人々から王太子として認められているのだろう。


「アル。」


 エルメウスが少し声を落とした。


「焦らなくていい。」


「父上も私も、先生方も。」


「みんな、お前が元気になることを一番に考えている。」


 アルベルトはその言葉に少しだけ胸が熱くなる。


 前世では、


 「休め。」


 そう言われても現場へ向かった。


 工期が迫っている。


 人手が足りない。


 迷惑をかけられない。


 そんな理由で働き続けた。


 だが、この世界では違う。


 少なくとも家族は、自分の体を第一に考えてくれている。


「……ありがとう、兄上。」


 自然と口から出た。


 エルメウスは一瞬驚いた表情を見せたあと、照れ隠しのように笑った。


「そんなに改まって礼を言われると、少し恥ずかしいな。」


 二人のやり取りを見ていたリファーリアも、思わず口元を緩める。


 王宮では、王族同士の会話には常に緊張が伴う。


 だが、この兄弟にはそれがない。


 互いを思いやる空気が自然に流れていた。


 エルメウスは立ち上がると、アルベルトへ手を差し伸べた。


「少しだけ庭へ行かないか?」


「天気もいい。」


「花もきれいに咲いている。」


「外の空気を吸えば、きっと気分も良くなる。」


 アルベルトはその手を見る。


 小さな自分の手より、少しだけ大きい兄の手。


 前世なら、照れくさくて断っていたかもしれない。


 だが今は違う。


 アルベルトは素直にその手を握った。


「うん。」


 二人は並んで歩き始める。


 その後ろを、微笑みながらリファーリアが続いた。


 廊下の窓から差し込む陽光が、兄弟の背中を優しく照らしている。


 誰も知らない。


 この何気ない朝の光景が、やがて「黄金時代を築いた二人の王子」の始まりとして語り継がれることを。


 そして、その庭園への散歩が、アルベルトにとって初めて「ヴァルデリア王国」という世界を自分の目で見る機会となることを。

初投稿になります。

誤字脱字や言い回しなど、気になる点があればどんどんご意見下さい!!

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