↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
私創 三国志異聞奇譚〔本編〕「銀の黄昏に、白玉の龍が哭く」〜戦乱世を凌駕した美しき龍人の鎮魂歌  作者: 若沙希
第二章 冥漠を裂く赤き鉤月 〜後編「水琴哀鳴(すいきんあいめい)」
93/94

第93話 湯に煙る朱唇(しゅしん)

「珖明様、少し早いですが夕飯になさいますか? 広元様は帰宅が遅くなるやもとの事で、珖明様は先にと仰られていましたが」


 小さな厨房で居合わせた珖明に、下僕(男の召使)が尋ねる。


「いや、まだ食事は要らぬ。……あとは自身でするから、おまえはもう休んでよいぞ」


 言われた中年の下僕は頭を下げ、辞した。


 厨房は四方壁の内、一面が壁のない開け放たれた構造になっているため、吹きさらしに近い。湿気や換気を考慮した伝統構造だ。

 設置の竃《かまど》にのせられた、下から火を受けている羹《あつもの》(スープ)釜の蓋隙間から吹く湯気の描く流れを、珖明はひとり立ったまま眺めた。


 風は無く、湯気は素直に上へと登っている。


 樊亭候《はんていこう》が運よく襄陽に御座《おわ》すとのことで、石公はすぐさま取り次いでくれた。そのため、広元は今朝から出掛けている。


 ―――― あとは有効な証拠集めか。


 不正隠蔽で崔氏を吊るし挙げたとなれば、主犯側はさっさと行刑段取りをしかねない。先んじて敵を封じ込める策を回さねば。……


 熱され過ぎた羹の蒸気が、釜蓋をかたかたと持ち上げ始めた。溢れ出る前にと、珖明が蓋に手を出しかけたとき、


「捕らえられたという崔氏は、あの崔烈《さいれつ》一族か」


 背後からの声。


「……!?」


 振り向いた先、厨房の裏壁に設けられた細い裏口の縁に寄り掛かり立つは、なんと周瑜《しゅうゆ》。


「勝手に済まぬな。取次らしき者が誰も見当たらなかった」


 周瑜がこの居宅を訪れたのは二度目。ひと月足らず前の、あの嵐日以来である。

 この男が目的なく訪うはずがないと感じつつ、珖明はいつもと変わらぬ態で応じた。


「これは突然のご訪問。何か急用でも?」


 崔氏の事件は龐統から聞いたのであろう。かといって、その件に周瑜が首を突っ込んでくるとは思えない。

 ……では、何をしに?


「……」


 襄陽での再会以降、熱心に珖明の出仕を要望し続けてきた周瑜だが、このところ積極的接触をしてこなかった。さすがに諦めたかと、珖明も思っていたのだが。

 

 つと珖明は、周瑜の服装が乗馬のできる旅装であることに注目した。


 ―――― もしや、襄陽を出るつもりか。


 厨房に入った周瑜は竈《かまど》に近付くと、妙にゆっくりとした所作で、釜の蓋を少しずらし、雑音を消した。

 そして、珖明の正面に対峙する。


「江東に、戻らねばならなくなった」

「……」


 やはり、そうか。


「故に、これが最後だ」


 周瑜の眸《ひとみ》が、これまでに知らぬ重たさを秘めているのを、珖明は感じとっている。


「来てくれぬか、わたしと共に。そなたの才は、場を得れば必ずや、大きく天下に開花する」

「……」


 口上はこれまでと同じであるのに、空気が違っていた。ここでの周瑜からは、どこか悲壮感のようなものが鳴り響いている。


 二、三呼吸ほどの間があいた。


「……公瑾どの」


 珖明の、低い声色。


「何が、ありましたのか」

「……」


 訊ねに、周瑜はひとつ大きく嘆息した。一度瞼を半目伏せ……上げる。


「ここで伏せたとて、直ぐに襄陽にも伝わろう。……だがそれまでは、他言無きよう願う」


 瞳奥に粘り気のある影を湛え、告げた。


「孫侯(孫策《そんさく》)が、亡くなられた」

「!?」


 さしもの珖明も寝耳に水であった。

 周瑜は口調を変えずに続ける。


「正確にはまだ死したと限らぬ。だが呉夫人からの報には『そう捉えよ』とあった。わたしはこのまま、呉県へ向かう」


 呉夫人とは、孫策の父・孫堅《そんけん》の正妻、すなわち孫策の実母のことである。賢母と評されており、孫策と義兄弟の契りを結んだ周瑜にとっては、義母に等しい。


 孫策の死。

 この衝撃展開には、珖明も胸奥のざわつきが隠せなかった。


 孫策、二十六歳。周瑜と同齢での急死。

 死の真相を周瑜は語っていない。なれど、誤報でないとして考えられる可能性で一番高い事由は、暗殺である。孫策を怨嗟する者はそれほど多いのだ。


「孫候の後継は、遺命で、弟の孫権《そんけん》様が引き継ぐ。まだお若いが、その思慮深さ、有能人材を用い活かす能力は、孫候以上だ」


 珖明は周瑜を見澄した。


 ―――― 気丈な男だな。


 心中で敬服する。

 絶対的主柱であった指導者の突然死という、呉軍にとっては最大の存亡危機。まして、兄弟に等しい長年の盟友を失った周瑜の嘆きは、想像に難くない。


 だがこの男は、慌てふためくさまも見せず泰然とし、しかも、すでに江東全軍の先を思索しているのだ。


「孫候を失った大きさは言うまでも無い。だが江東はこれから尚力をつけ、豊かになる。孫候の父、孫堅様が急死された後もそうだったからな」


 珖明に語りながら、周瑜は実のところ、半ばはおのれを励ましていた。


 ただし、今後の孫氏については、決して無根拠で述べているのではない。

 孫策より七歳年少である孫権は十九歳。総帥としては確かに若年である。しかしながらすでに出仕も果たしており、その有能さを、誰より孫策が認めていた。


 だからこそ、孫策は自身の子息を差し措き、弟の孫権を後継者に指名した。その英断に、周瑜が不安を挟む余地などない。


 ずらしたはずの釜の蓋が再び揺れ始めた。煮込まれすぎた羹《あつもの》の熱と香が室中に漂う。


 周瑜も珖明も、しばらく声を発さなかった。微細な金属音と蒸気音が、厨房の息詰まる静けさを返って際立たせている。

 流れる緊張の間……孫策の死という事態に至り、このふたりの対峙には、ひとつの条件変化がもたらされていた。


 珖明が周瑜からの出仕要望に応えぬ理由としてきた、孫策の存在の消滅。

 若々しい江東の有望な未来。

 そして今ここに、周瑜がいる。


 拠り所を持たぬ珖明の境遇に対するあらゆる条件は、選ぶべき時宜《じぎ》を揃えていた。


 さらに数呼吸分が過ぎ……やがて。


「江東の災難、心よりお悔やみを申し上げます」


 珖明が、うつむいた唇を開いた。


「新盟主を支え、公瑾どのをはじめとした呉の皆様が創られる未来は、頼もしい限りかと。……ですが」


 額をあげる。


「わたしは、江東へは参れません」

「……」


 言い切りを受けた周瑜は眉頭を寄せる。


 ―――― 何故、それほど。


 珖明の、この頑なさ。

 周瑜は以前より疑問に思っていた。江東出仕の件について、珖明には初めから迷いがまったくみられない。

 人の志が多種多様とは言え、この者はどういう理由で、ここまで孫氏やわれを拒むのか。


 南方を見下す中原人が多いのは事実にしろ、珖明がそのような安い輩《やから》類とは考えられなかった。

 かといって、曹操支配の魏や荊州の劉表に、その目が向いているとも思われないのだ。


 ―――― 何かもっと、別の理由がある。

 

 珖明はさらりと周瑜に背を向け、傍《かたわら》の作業卓上を手持ち無沙汰げに指でなでる。

 その後ろ背に、周瑜は呟いた。


「……そうか」


 此の期に及んで珖明の出仕承諾を得られると期待するほど、彼は安直思考ではない。


「ならばこれ以上は何も言うまい。だが最後に教えてくれぬか。孫氏やわれをそれほど否定し、拒むわけを」

「……」


 強気な本人に似合わぬ口振りに、珖明は背を向けたまま柔い息をついた。


「誤解くださらぬよう。あなたや孫氏を否定しているのではありません」

「……」

「ただ、わたしの ――」


 言いかけたときだった。

 伸びた周瑜の左腕が珖明の右肘を捉え、その身を強く引き寄せた。力で表に返された珖明の左肩が、周瑜の手に鷲掴まれる。


 そして、次の間。亮の朱唇を、周瑜の唇がとらえていた。


「!?!」


 珖明の息が止まり、眼が見開かれる。直後に、周瑜の左頬が鳴った。


「なん……の、つもりだ!!」


 拗《よじ》れ詰まった喉から絞り出される、尖った語気。

 珖明は肩を大きく上下させている。おそらくは誰も見たことのない、怒りに血走る眼が周瑜を睨め上げていた。


 平手を受けた反動で一歩後ずさった周瑜の左頬には、赤い指跡が浮き上がっている。

 払われた顔向きに、周瑜は切った口内の血を吐き捨てた。


「……なるほど、な」


 手甲で口元を拭い、周瑜は珖明を眄《み》返す。


「華奢《きゃしゃ》ながら急所を得ている。……効いたぞ」


 一歩踏み出してきた男に、珖明が即時反応する。懐《ふところ》の何かを捉えようとしたその両手首を、周瑜が素早くとり抑えた。


「―― !」 


 力で叶わぬ珖明が、それでも抵抗に踠《もが》く。


「……珖明」


 周瑜の眼前にあるは、皎《しろ》い玉貌に浮いた、襲いかかる狼のごとき眼光。

 鋭く、そして……美しい。……


「案ずるな、この上無体はせぬ。わたしとて、喉を裂かれたくはないからな」


 あがく細い手首を握力で封じ込めながら、周瑜は珖明の耳元に口を近付け、囁いた。


「今は去る。だが事情が変わったらいつでもわたしの許《もと》へ来い。……待っているぞ」


 耳から顔を離すと、周瑜はやんわり口端をあげ、掴んだ手首を解放した。

 くるりと身を返し、入ってきた裏口へと歩む。


 珖明は肩息をいくぶん落ち着かせてはいるものの、身動ぐことなく周瑜をきりり、ねめ付け続けている。

 圧ある眼力に気付いてか、周瑜は室から出かけた所で足を止めた。


「……諸葛、珖明」


 肩越しに、願いとも言い聞かせともとれる声色をもって、言い置いた。


「再び会うまで、その生き方……必ず、貫いてくれ」



<次回〜 第94話「周瑜の餞別《せんべつ》」>

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。