第93話 湯に煙る朱唇(しゅしん)
「珖明様、少し早いですが夕飯になさいますか? 広元様は帰宅が遅くなるやもとの事で、珖明様は先にと仰られていましたが」
小さな厨房で居合わせた珖明に、下僕(男の召使)が尋ねる。
「いや、まだ食事は要らぬ。……あとは自身でするから、おまえはもう休んでよいぞ」
言われた中年の下僕は頭を下げ、辞した。
厨房は四方壁の内、一面が壁のない開け放たれた構造になっているため、吹きさらしに近い。湿気や換気を考慮した伝統構造だ。
設置の竃にのせられた、下から火を受けている羹(スープ)釜の蓋隙間から吹く湯気の描く流れを、珖明はひとり立ったまま眺めた。
風は無く、湯気は素直に上へと登っている。
樊亭候が運よく襄陽に御座すとのことで、石公はすぐさま取り次いでくれた。そのため、広元は今朝から出掛けている。
―――― あとは有効な証拠集めか。
不正隠蔽で崔氏を吊るし挙げたとなれば、主犯側はさっさと行刑段取りをしかねない。先んじて敵を封じ込める策を回さねば。……
熱され過ぎた羹の蒸気が、釜蓋をかたかたと持ち上げ始めた。溢れ出る前にと、珖明が蓋に手を出しかけたとき、
「捕らえられたという崔氏は、あの崔烈一族か」
背後からの声。
「……!?」
振り向いた先、厨房の裏壁に設けられた細い裏口の縁に寄り掛かり立つは、なんと周瑜。
「勝手に済まぬな。取次らしき者が誰も見当たらなかった」
周瑜がこの居宅を訪れたのは二度目。ひと月足らず前の、あの嵐日以来である。
この男が目的なく訪うはずがないと感じつつ、珖明はいつもと変わらぬ態で応じた。
「これは突然のご訪問。何か急用でも?」
崔氏の事件は龐統から聞いたのであろう。かといって、その件に周瑜が首を突っ込んでくるとは思えない。
……では、何をしに?
「……」
襄陽での再会以降、熱心に珖明の出仕を要望し続けてきた周瑜だが、このところ積極的接触をしてこなかった。さすがに諦めたかと、珖明も思っていたのだが。
つと珖明は、周瑜の服装が乗馬のできる旅装であることに注目した。
―――― もしや、襄陽を出るつもりか。
厨房に入った周瑜は竈に近付くと、妙にゆっくりとした所作で、釜の蓋を少しずらし、雑音を消した。
そして、珖明の正面に対峙する。
「江東に、戻らねばならなくなった」
「……」
やはり、そうか。
「故に、これが最後だ」
周瑜の眸が、これまでに知らぬ重たさを秘めているのを、珖明は感じとっている。
「来てくれぬか、わたしと共に。そなたの才は、場を得れば必ずや、大きく天下に開花する」
「……」
口上はこれまでと同じであるのに、空気が違っていた。ここでの周瑜からは、どこか悲壮感のようなものが鳴り響いている。
二、三呼吸ほどの間があいた。
「……公瑾どの」
珖明の、低い声色。
「何が、ありましたのか」
「……」
訊ねに、周瑜はひとつ大きく嘆息した。一度瞼を半目伏せ……上げる。
「ここで伏せたとて、直ぐに襄陽にも伝わろう。……だがそれまでは、他言無きよう願う」
瞳奥に粘り気のある影を湛え、告げた。
「孫侯(孫策)が、亡くなられた」
「!?」
さしもの珖明も寝耳に水であった。
周瑜は口調を変えずに続ける。
「正確にはまだ死したと限らぬ。だが呉夫人からの報には『そう捉えよ』とあった。わたしはこのまま、呉県へ向かう」
呉夫人とは、孫策の父・孫堅の正妻、すなわち孫策の実母のことである。賢母と評されており、孫策と義兄弟の契りを結んだ周瑜にとっては、義母に等しい。
孫策の死。
この衝撃展開には、珖明も胸奥のざわつきが隠せなかった。
孫策、二十六歳。周瑜と同齢での急死。
死の真相を周瑜は語っていない。なれど、誤報でないとして考えられる可能性で一番高い事由は、暗殺である。孫策を怨嗟する者はそれほど多いのだ。
「孫候の後継は、遺命で、弟の孫権様が引き継ぐ。まだお若いが、その思慮深さ、有能人材を用い活かす能力は、孫候以上だ」
珖明は周瑜を見澄した。
―――― 気丈な男だな。
心中で敬服する。
絶対的主柱であった指導者の突然死という、呉軍にとっては最大の存亡危機。まして、兄弟に等しい長年の盟友を失った周瑜の嘆きは、想像に難くない。
だがこの男は、慌てふためくさまも見せず泰然とし、しかも、すでに江東全軍の先を思索しているのだ。
「孫候を失った大きさは言うまでも無い。だが江東はこれから尚力をつけ、豊かになる。孫候の父、孫堅様が急死された後もそうだったからな」
珖明に語りながら、周瑜は実のところ、半ばはおのれを励ましていた。
ただし、今後の孫氏については、決して無根拠で述べているのではない。
孫策より七歳年少である孫権は十九歳。総帥としては確かに若年である。しかしながらすでに出仕も果たしており、その有能さを、誰より孫策が認めていた。
だからこそ、孫策は自身の子息を差し措き、弟の孫権を後継者に指名した。その英断に、周瑜が不安を挟む余地などない。
ずらしたはずの釜の蓋が再び揺れ始めた。煮込まれすぎた羹の熱と香が室中に漂う。
周瑜も珖明も、しばらく声を発さなかった。微細な金属音と蒸気音が、厨房の息詰まる静けさを返って際立たせている。
流れる緊張の間……孫策の死という事態に至り、このふたりの対峙には、ひとつの条件変化がもたらされていた。
珖明が周瑜からの出仕要望に応えぬ理由としてきた、孫策の存在の消滅。
若々しい江東の有望な未来。
そして今ここに、周瑜がいる。
拠り所を持たぬ珖明の境遇に対するあらゆる条件は、選ぶべき時宜を揃えていた。
さらに数呼吸分が過ぎ……やがて。
「江東の災難、心よりお悔やみを申し上げます」
珖明が、うつむいた唇を開いた。
「新盟主を支え、公瑾どのをはじめとした呉の皆様が創られる未来は、頼もしい限りかと。……ですが」
額をあげる。
「わたしは、江東へは参れません」
「……」
言い切りを受けた周瑜は眉頭を寄せる。
―――― 何故、それほど。
珖明の、この頑なさ。
周瑜は以前より疑問に思っていた。江東出仕の件について、珖明には初めから迷いがまったくみられない。
人の志が多種多様とは言え、この者はどういう理由で、ここまで孫氏やわれを拒むのか。
南方を見下す中原人が多いのは事実にしろ、珖明がそのような安い輩類とは考えられなかった。
かといって、曹操支配の魏や荊州の劉表に、その目が向いているとも思われないのだ。
―――― 何かもっと、別の理由がある。
珖明はさらりと周瑜に背を向け、傍の作業卓上を手持ち無沙汰げに指でなでる。
その後ろ背に、周瑜は呟いた。
「……そうか」
此の期に及んで珖明の出仕承諾を得られると期待するほど、彼は安直思考ではない。
「ならばこれ以上は何も言うまい。だが最後に教えてくれぬか。孫氏やわれをそれほど否定し、拒むわけを」
「……」
強気な本人に似合わぬ口振りに、珖明は背を向けたまま柔い息をついた。
「誤解くださらぬよう。あなたや孫氏を否定しているのではありません」
「……」
「ただ、わたしの ――」
言いかけたときだった。
伸びた周瑜の左腕が珖明の右肘を捉え、その身を強く引き寄せた。力で表に返された珖明の左肩が、周瑜の手に鷲掴まれる。
そして、次の間。亮の朱唇を、周瑜の唇がとらえていた。
「!?!」
珖明の息が止まり、眼が見開かれる。直後に、周瑜の左頬が鳴った。
「なん……の、つもりだ!!」
拗れ詰まった喉から絞り出される、尖った語気。
珖明は肩を大きく上下させている。おそらくは誰も見たことのない、怒りに血走る眼が周瑜を睨め上げていた。
平手を受けた反動で一歩後ずさった周瑜の左頬には、赤い指跡が浮き上がっている。
払われた顔向きに、周瑜は切った口内の血を吐き捨てた。
「……なるほど、な」
手甲で口元を拭い、周瑜は珖明を眄返す。
「華奢ながら急所を得ている。……効いたぞ」
一歩踏み出してきた男に、珖明が即時反応する。懐の何かを捉えようとしたその両手首を、周瑜が素早くとり抑えた。
「―― !」
力で叶わぬ珖明が、それでも抵抗に踠く。
「……珖明」
周瑜の眼前にあるは、皎い玉貌に浮いた、襲いかかる狼のごとき眼光。
鋭く、そして……美しい。……
「案ずるな、この上無体はせぬ。わたしとて、喉を裂かれたくはないからな」
あがく細い手首を握力で封じ込めながら、周瑜は珖明の耳元に口を近付け、囁いた。
「今は去る。だが事情が変わったらいつでもわたしの許へ来い。……待っているぞ」
耳から顔を離すと、周瑜はやんわり口端をあげ、掴んだ手首を解放した。
くるりと身を返し、入ってきた裏口へと歩む。
珖明は肩息をいくぶん落ち着かせてはいるものの、身動ぐことなく周瑜をきりり、ねめ付け続けている。
圧ある眼力に気付いてか、周瑜は室から出かけた所で足を止めた。
「……諸葛、珖明」
肩越しに、願いとも言い聞かせともとれる声色をもって、言い置いた。
「再び会うまで、その生き方……必ず、貫いてくれ」
<次回〜 第94話「周瑜の餞別」>




