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私創 三国志異聞奇譚〔本編〕「銀の黄昏に、白玉の龍が哭く」〜戦乱世を凌駕した美しき龍人の鎮魂歌  作者: 若沙希
第二章 冥漠を裂く赤き鉤月 〜後編「水琴哀鳴(すいきんあいめい)」
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第94話 周瑜の餞別

 広元が檀渓水《だんけいすい》浮橋の襄陽城側に着いたのは、日没直前の時刻であった。


 ―――― 取り敢えず樊亭侯《はんていこう》が賛同してくれてよかった。……あとは士元どのが、頼みの綱か。


 他に出来る事はないだろうか。そんな思案に耽りながら、橋を渡るために臨んだ岸辺。暮色に包まれ視界も落ちてきた中で、広元は前方に認めた光景に目を丸くした。


 ―――― こ、公瑾どの……!?


 大柄な騏《き》馬(青毛の馬)を引いて橋から降り立ったのは、周瑜ではないか。

 たまたま辺りにほとんど人影が見られないからよいものの、やはり遠目にも目立ってしまう全体像。崔衡が『素通り出来なかった』というのも、無理はない。


 広元は内心慌てつつも、なるべく周囲の目を引かぬよう、平静を装って周瑜へと歩んだ。周瑜も、広元にはとうに気付いている。


「今、帰宅か」

「ええ、両親のところに行っておりました。……あの」


 このところ見かけなかったとはいえ、周瑜は基本、身を潜める所作でいたはずなのに。

 そんな不可解さと同時、広元は周瑜が旅出の様相であることを認めた。


 ―――― どこかに遠出するのか……今から?


 人目を気遣い、ふたりは橋のたもとからやや離れた場所に移動したところで、周瑜が別れを口にする。


「時がないゆえ簡易挨拶で申し訳ないが。わたしは呉県へ行かねばならない」

「呉へ!?」

「途中で巴丘《はきゅう》からの部下と合流する」


 平常を装いながらも存在する周瑜の緊迫感が、広元には透けて見えている。


「まさか、今この場で発たれるのですか?」

「ああ。急ぐ故な」

「ですが……それは」


 空はすでに昏《くら》さを敷き始めている。間もなく陽は落ち、城門も閉まる時刻だ。

 周瑜は夜間走破をするつもりなのか。だとしても呉までは相当な距離。船を駆使すれば時短は出来るかも知れぬが……。


 ―――― 部下と合流……江東で何か、緊急事態があったか。


 推測は広元も様々できる。

 されどここでそれを訊ねても、おそらく周瑜は答えまい。


 広元は沔水を見遣った。

 周瑜は橋を渡ってきた。ということは、彼向う岸 ―― 広元宅を訪れたのだろう。


 広元が尋ねるより先に、周瑜が答えた。


「珖明には辞去を伝えてきた。事情は珖明に聞くとよい。他言無用としたが、そなたは別だ」

「……」


 言われた広元、心情では納得しかねている。

 最後に珖明を訪ねた周瑜の目的が、単なる辞去挨拶だけだったと……?


 察したのか、周瑜は思い量った含み笑みを作る。


「安心しろ、珖明は連れて行かぬ。本人がうんと言わぬものを、強引に攫《さら》うわけにもいくまいよ」


 並び良い歯を見せた周瑜は、さらりと騎乗し馬首を整えた。

 そして馬上から、確証を得た強さで広元に説き始める。


「広元。珖明を隠すことは天が許さん。あ(・)れ(・)はそういう質《たち》の者だ」

「……」

「遠からず確実に、天の時は来よう。……そなたがいかに庇《かば》い守ろうともな」


 命を下す如く言い渡されたその一言に、広元は硬い針で方寸《ほうすん》(心臓)をひと突きされたような、鋭い痛みを錯覚した。


『庇い守る』


 広元の目元が一気に険しさを増す。周瑜、この男は……。

 赤みを帯びる広元の顔色を眺め、周瑜は畳み掛けを放った。


「そして必ず、わたしが得るぞ」


 馬主を南に向け、馬腹を蹴ようとする間際、周瑜は忘れ物に気付いたように動きを留め、頭だけを広元に返して言った。


「聞いた話だが。そなたも有利な荊州仕官を、ずっと保留にしているらしいな」

「……」

「見定め先はどこにせよ、そなたもいつまでも引きこもっていないで、自身を活かす道を早く歩め。世はますます荒れる。時はあるようでないぞ。……これは友としての助言だ」


 餞別の言に再度口角を上げると、周瑜は掛け声と共に手綱を力強く打ち、馬を馳せた。


 瞬く間に、彼の後ろ姿は遠のいていく。

 ひとり残された広元は、たった今自覚した確信を心中で吐いた。


 ―――― 周瑜は、気付いてる。


 崔衡も見抜いていた事実……珖明が〈女〉だということ。

 それは、必ずしも崔衡だけが持つような、特殊な感覚力ではないのだ。


 周瑜の真の目的がどこにあるのか、広元に言い切れるほどの確証はない。

 されど、これだけはわかった。


 ―――― 時は、容赦ない。


 人は成長し、こうしてひとり、またひとりと気付いて行く。

 外部と接することと比例する至極当然の成り行きに、珖明は……そして自分は、どう向き合っていけばよいのか。


「……」


 得体の知れぬ新たな歯車が、われらを取り込もうとしている。

 言葉では説明の出来ぬ重い感触が、広元の全身を侵食し始めていた。

 ……


 余映が、襄陽城を暗く威厳ある姿に浮き立たせる。

 遠く米粒のようになった周瑜の馬影は、暮れる闇に溶け、彼方に消えていった。


◇◇◇


 孫策《そんさく》の母・呉夫人の急報文面違わず、孫策は周瑜に報が着く直前に死していた。

 周瑜は合流した巴丘の自軍と供に、孫策の身のある呉へと駆けつけたものの、盟友の死に目には間に合わなかった。


 死因は病死と発表されたが、真実は、襲われたときに受けた矢傷が原因である。


 頰を射抜かれるという致命的大傷であったにもかかわらず、孫策は即死でなかったという。

 まさに信じ難き気力体力。まごう方なく、孫策はかつて周瑜が評した『覇魂《はこん》』そのものであったと言えるだろう。


 実行犯は、孫策に謀殺された呉郡太守・許貢《きょこう》の息子と食客だとか、同じく討伐された山越《さんえつ》(南方の異民族)の残党だとか、その他様々憶測が取り沙汰されたものの、断定は後々もされぬまま、迷宮入りとなった。


 呉に到着した周瑜はそのまま葬儀を仕切った。

 その後の彼は、跡目となった十九歳の孫権を補佐して、江東の混乱を最小限に抑えることに尽力する。


 偉大な兄亡き後を受け継いだ孫権は、若いながらによく努めて有能人材を集め、国の基盤構築に取り組んだ。

 周瑜が珖明に語った通り、江東はしばらく、戦を繰り返した孫策時代とはうって変わった、国力を養う期間に入ることになる。


 魯粛《ろしゅく》もまたこの時期、孫権に周瑜の仲介で面会し、孫氏に仕える身となった。


 魯粛はのち、江東江南、すなわち『呉国』の覇者となる孫氏の最高重臣として、凄まじい活躍を遂げることとなる。

 魯粛の推挙もまた、周瑜の孫氏における大功績のひとつであった。


 ……ただ。

 当の周瑜はというと、魯粛を推挙した後、なぜか六年もの間、目立った表舞台からは身を潜めてしまう。

 その間の彼の意図は、何であったのか。

 ……


 英雄周瑜の再登場を迎えるために、天下は三国期史上もっとも名高い大戦〈赤壁の戦い〉まで、しばし時を待つことになる。



<次回〜 第95話「釈放の真相〈1〉」>

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