第92話 熱夢
広元は次の場所、先に珖明が行っている石家へ向かうため、龐統の室を早々に辞した。
珖明は説得の力量を持っているから、任せて心配はない。それでも情領分となると、正直、いささか不安が過ぎらぬでもなかった。
―――― その点だけは珖明、ちょっと鈍感だからな。
龐統の室を出て邸出口に向け、廊下を小走りに急ぐ。そのままの勢いで角を曲がろうとした出会い頭に、人の姿があった。
「あっ!?」
ぶつかると思った瞬時、広元の視界に入ったのは、相手の鋭い眼光。
その者は瞬きより素早く身体をするりとかわし、さらに、衝突を避けようと均衡を崩しよろけた広元を、腕で支えた。
「これは申し訳ございません。お怪我はありませんか?」
素晴らしく機敏な動きをしたのは、広元と同世代に見える初顔の青年であった。
広元の転倒を救った腕、見目は細いが、しっかりとした力を維持している。
ここまで焦りに追い立てられていた広元は、一呼吸の冷静さを得て息をつき、詫びた。
「あ、平気です。こちらの不注意ですから……申し訳ない」
「わたしこそ」
安堵の笑みを見せる青年は、地味な服装に清楚な面様。ただ目元には、先ほど垣間見せた眼光の名残がある。
ふと広元は、居巣で見かけた呉の少年を思い出した。
居を正した青年は拱手する。
「わたしは鄧擬、字を順匡と申す者。医者の張仲景の弟子をしております。本日はこちらの奥様にお薬を届けにあがったところでした」
「張仲景先生!?」
張仲景は、疫病に苦しむ民を救うため官吏を退いて医道に進んだ、荊州南陽郡出身者だ。神医のひとりとして世に知られている。
「では奥様の主治医は、かの仲景先生でしたか」
さすが名家龐氏、侍医も有能な伝手がある。龐統が今日早退した理由は、久々医者の使いが訪れる予定だったからであろう。
「張先生のお弟子様とお会いできるとは、光栄です」
弟子ということは、この青年も医学者。広元は感心を込め、あらためて挨拶を返した。
「龐士元どのの友人の、石韜、字は広元といいます。それにしても、そのお若さでお医者様とは」
青年は小さく笑った。
「医者ではありませんよ。ただの見習いです」
「え? あ、ああ、そうですね」
早とちりと反省しつつ、広元も笑み返す。広元の認識として、医療従事者は一般に偏屈が多い印象があるのだが、この青年は比較的愛想が良い。
「しかし今は見習いでも、ゆくゆくは医者になられましょう。人の命を救うお仕事、ご立派です」
医術従事者の身分は低く、どれほど需要があり庶人から感謝を集めようと、出世街道からは遠いのが通例であった。
それでも広元自身は常から、尊敬に値する職種だととらえている。
「奥様の快癒は、張先生のご尽力だったのですね。これをご縁によろしく――」
そう言いかけて。
「……と言って良いのか。お医者様ついては本音、お世話になるような機会はないようにと願うところですが」
戯言交じりに返しながら、広元は思っている。
―――― それにしても、さっき見せた身のこなしは、常人離れしていたな。
最近世間でもうひとり神医と称されている、『華佗』という医者も、年齢に見合わぬ異様な体力と若さを保っている、と聞いた事がある。
人の健康を診る側は、自身も常人より健で無ければならぬ、ということであろうか。
「石広元様、わたしもあなた様を診る事態にならないことを願います。……ところで、何かお急ぎだったのでは?」
「! あ!」
指摘され、広元は抱えていた問題に覚醒した。そうだ。呑気に感心などしている場合ではない。
「そうでした。すみません、失礼いたします」
辞去挨拶もそこそこに、広元は再び小走りで廊下を駆けていく。
「お気をつけて」
転びそうにばたつく広元の後ろ姿を、医者見習いの青年が、静かに見送った。
◇◇◇
「今日はこのくらいで済ませたが、さっさと吐いて楽になった方がいいぞ。『銅臭』様よ」
獄吏の冷笑いが、崔衡の耳に残る。
拷問を終えて運ばれた監禁の室。激痛に耐えつつ、崔衡は背を庇う俯せ姿勢で床にいた。
――――『吐け』? 台本ひとつ無いものを、どう吐露すればいい。
自身の状況に低笑する。
手っ取り早く自白を得るため行われた杖打ちで、崔衡の背は衣服にまで、薄っすら血が滲んでいた。
放り込まれた場所は、牢獄の一種ではあるものの、最低限の室体裁を保った場所だった。
最悪の獄は、単に地中に縦穴を掘った井戸形体。これは、元高官である崔氏への一応の配慮のつもりなのか。
―――― 叔父上逹は、無事だろうか。
あまりに唐突で、防ぎようの無い事態であった。共謀疑いを掛けられているために、叔父と従兄の状況が、崔衡にはいっさいわからない。
こうなった経緯について、叔父達なら、何か思い当たる筋もあるかも知れないのだが。
―――― 隔離されては……。
しくじったと憂える。もっと注意深く周囲を見図るべきであった。
官吏から距離を置き、且つ家族間でも意思疎通の不充分だった崔衡は、此度のたくらみに、何も気付けなかったのだ。
叔父と従兄、どちらも収賄などというくだらぬ事に手を染める類ではない。これはおそらく、外部者が作った筋書きだろう。
……では、何者が仕組んだのか。
―――― 崔家を身代わりにしたのは、もしかすると急場対応だったのか。
いまや力のない崔氏、わざわざ貶めようなどという奇特な者なぞ、そうはいまい。
考えられるのは、己の罪露見を察知した主犯が応急的に、『銅臭一族』という、わかり易い風聞を利用した可能性だ。
用意周到であったならば勝算は至難だが、急場なのであれば、そこに綻びがあるかも知れない。
……
ほとんど手当もされていない背の痛みが、熱に変わり始めていた。または全身が発熱しているのか。強い頭痛が走り、次第に身体が重くなる。
急に、意識がぼんやりした。
「……」
鈍くなる感覚に陥りながら、崔衡は必死に思案する。
何とかせねば。このままでは、義従姉や阿戯逹にまで累が及んでしまい兼ねない。
何か……誰か……。
襲う朦朧の大波に抗えず、崔衡の意識は落ちた。
◇◇◇
誰かの手が、自分に触れていた。
混濁意識の中での感取。その手の動きはゆるり穏やかで、崔衡を労っている風である。
―――― 夢……?
自覚する背の痛み。痛覚があるというからには、夢ではないのか?
……よくわからない。もしかして、われはもう、死んでいるのだろうか……。
ひと組の腕が崔衡の頭をそっと持ち上げ、柔らかな、膝上と思わしき地におろす。
口元に小さな木匙が運ばれた。
「薬だ。飲め。ゆっくりでいい」
丁寧な手つきでほんの少しづつ、崔衡の口に匙から薬液が注がれる。崔衡はされるがまま、流し込まれたものをやっとのことで飲み込んだ。
なん口か、それが繰り返された。
やがて匙を置いた掌が、崔衡の額を包む。発熱のせいだろう、それは冷んやりと心地良い。
そして静穏な声かした。
「安心していい。他のふたりも無事だ。済まぬがもうあと少し、辛抱しろ」
介抱者は崔衡の耳元に唇を近付け、囁く。
「だから、決して死ぬなよ。州平」
「……」
茫としつつも、崔衡は認識する。この声は……。
―――― ……珖明。
額に添えられた掌は、熱を冷やす温度のはずであるのに、なぜか温かい。
……
その状態でどのくらい経ったか。
珖明は崔衡の頭を、持参した枕にやんわりと移し置き、横たえた体に肩まで衾をかけると、音もなく立ち上がり、室を立ち去っていった。
その姿を、全身の怠さに病む崔衡の瞳が、ぼんやりと追う。
こんな事はあり得ない。やはりこれは夢だ。
……だがきっと、この夢を忘れまい。
―――― ……珖明……わたしは、知っているんだ。
声ならぬ声で呟く。
―――― 知ってる……でも、きみはどうして、男の振りなぞしている。……どうし……て……。
熱か、または薬のせいか。
崔衡は再び、眠りに落ちた。
◇◇◇
広元逹も巻き込まれる事態となった、崔家の一大災禍が起きた奇しくも同日。
もうひとつ、世を攪乱させる大事件の急報が、龐家の隠れ家にいる周瑜に、密かに届けられた。
「しゅ、周様! これを……!」
馬を変え継ぎ、昼夜を置かず奔らせてきた伝達兵が、身を崩れさせて地に膝を付き、息も絶え絶えにひとつの竹簡を差し出した。
渡された短い書面を一読したとたん、周瑜は腰を下ろしていた床几を弾き飛ばし、突っ立った。
蒼白になった貌は、一言も発さない。
撼える両手に開かれた竹簡がそのまま左右に引き裂かれんばかり、カタカタと小刻みな音を立てる。
あまりに突然な、信じ難き報。
孫策が、死んだ。
<次回〜 第93話「湯に煙る朱唇」>




