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私創 三国志異聞奇譚〔本編〕「銀の黄昏に、白玉の龍が哭く」〜戦乱世を凌駕した美しき龍人の鎮魂歌  作者: 若沙希
第二章 冥漠を裂く赤き鉤月 〜後編「水琴哀鳴(すいきんあいめい)」
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第92話 熱夢

 広元は次の場所、先に珖明が行っている石家へ向かうため、龐統《ほうとう》の室を早々に辞した。


 珖明は説得の力量を持っているから、任せて心配はない。それでも情(・)領分となると、正直、いささか不安が過ぎらぬでもなかった。


 ―――― その点だけは珖明、ちょっと鈍感だからな。


 龐統の室を出て邸出口に向け、廊下を小走りに急ぐ。そのままの勢いで角を曲がろうとした出会い頭に、人の姿があった。


「あっ!?」


 ぶつかると思った瞬時、広元の視界に入ったのは、相手の鋭い眼光。

 その者は瞬きより素早く身体をするりとかわし、さらに、衝突を避けようと均衡を崩しよろけた広元を、腕で支えた。


「これは申し訳ございません。お怪我はありませんか?」

 

 素晴らしく機敏な動きをしたのは、広元と同世代に見える初顔の青年であった。

 広元の転倒を救った腕、見目は細いが、しっかりとした力を維持している。


 ここまで焦りに追い立てられていた広元は、一呼吸の冷静さを得て息をつき、詫びた。


「あ、平気です。こちらの不注意ですから……申し訳ない」

「わたしこそ」


 安堵の笑みを見せる青年は、地味な服装に清楚な面様。ただ目元には、先ほど垣間見せた眼光の名残がある。

 ふと広元は、居巣《きょそう》で見かけた呉の少年を思い出した。


 居を正した青年は拱手する。

 

「わたしは鄧擬《とうぎ》、字《あざな》を順匡《じゅんきょう》と申す者。医者の張仲景(ちゅうけい)の弟子をしております。本日はこちらの奥様にお薬を届けにあがったところでした」

「張仲景先生!?」


 張仲景は、疫病に苦しむ民を救うため官吏を退いて医道に進んだ、荊州南陽郡出身者だ。神医のひとりとして世に知られている。


「では奥様の主治医は、かの仲景先生でしたか」


 さすが名家龐氏、侍医も有能な伝手がある。龐統が今日早退した理由は、久々医者の使いが訪れる予定だったからであろう。


「張先生のお弟子様とお会いできるとは、光栄です」


 弟子ということは、この青年も医学者。広元は感心を込め、あらためて挨拶を返した。


「龐士元どのの友人の、石韜《せきとう》、字は広元といいます。それにしても、そのお若さでお医者様とは」


 青年は小さく笑った。


「医者ではありませんよ。ただの見習いです」

「え? あ、ああ、そうですね」


 早とちりと反省しつつ、広元も笑み返す。広元の認識として、医療従事者は一般に偏屈が多い印象があるのだが、この青年は比較的愛想が良い。


「しかし今は見習いでも、ゆくゆくは医者になられましょう。人の命を救うお仕事、ご立派です」


 医術従事者の身分は低く、どれほど需要があり庶人から感謝を集めようと、出世街道からは遠いのが通例であった。

 それでも広元自身は常から、尊敬に値する職種だととらえている。


「奥様の快癒は、張先生のご尽力だったのですね。これをご縁によろしく――」


 そう言いかけて。


「……と言って良いのか。お医者様ついては本音、お世話になるような機会はないようにと願うところですが」


 戯言交じりに返しながら、広元は思っている。


 ―――― それにしても、さっき見せた身のこなしは、常人離れしていたな。


 最近世間でもうひとり神医と称されている、『華佗《かだ》』という医者も、年齢に見合わぬ異様な体力と若さを保っている、と聞いた事がある。

 人の健康を診る側は、自身も常人より健で無ければならぬ、ということであろうか。


「石広元様、わたしもあなた様を診る事態にならないことを願います。……ところで、何かお急ぎだったのでは?」

「! あ!」


 指摘され、広元は抱えていた問題に覚醒した。そうだ。呑気に感心などしている場合ではない。


「そうでした。すみません、失礼いたします」


 辞去挨拶もそこそこに、広元は再び小走りで廊下を駆けていく。


「お気をつけて」


 転びそうにばたつく広元の後ろ姿を、医者見習いの青年が、静かに見送った。


◇◇◇


「今日はこのくらいで済ませたが、さっさと吐いて楽になった方がいいぞ。『銅臭』様よ」


 獄吏の冷笑《せせらわら》いが、崔衡《さいこう》の耳に残る。

 拷問を終えて運ばれた監禁の室。激痛に耐えつつ、崔衡は背を庇う俯《うつぶ》せ姿勢で床にいた。


 ――――『吐け』? 台本ひとつ無いものを、どう吐露《とろ》すればいい。


 自身の状況に低笑する。

 手っ取り早く自白を得るため行われた杖打ちで、崔衡の背は衣服にまで、薄っすら血が滲んでいた。


 放り込まれた場所は、牢獄の一種ではあるものの、最低限の室体裁を保った場所だった。

 最悪の獄は、単に地中に縦穴を掘った井戸形体。これは、元高官である崔氏への一応の配慮のつもりなのか。


 ―――― 叔父上逹は、無事だろうか。


 あまりに唐突で、防ぎようの無い事態であった。共謀疑いを掛けられているために、叔父と従兄の状況が、崔衡にはいっさいわからない。

 こうなった経緯について、叔父達なら、何か思い当たる筋もあるかも知れないのだが。


 ―――― 隔離されては……。


 しくじったと憂える。もっと注意深く周囲を見図るべきであった。

 官吏から距離を置き、且つ家族間でも意思疎通の不充分だった崔衡は、此度のたくらみに、何も気付けなかったのだ。


 叔父と従兄、どちらも収賄などというく(・)だ(・)ら(・)ぬ(・)事に手を染める類ではない。これはおそらく、外部者が作った筋書きだろう。


 ……では、何者が仕組んだのか。


 ―――― 崔家を身代わりにしたのは、もしかすると急場対応だったのか。


 いまや力のない崔氏、わざわざ貶《おとし》めようなどという奇特な者なぞ、そうはいまい。

 考えられるのは、己の罪露見を察知した主犯が応急的に、『銅臭一族』という、わかり易い風聞を利用した可能性だ。


 用意周到であったならば勝算は至難だが、急場なのであれば、そこに綻《ほころ》びがあるかも知れない。

 ……


 ほとんど手当もされていない背の痛みが、熱に変わり始めていた。または全身が発熱しているのか。強い頭痛が走り、次第に身体が重くなる。


 急に、意識がぼんやりした。


「……」


 鈍くなる感覚に陥りながら、崔衡は必死に思案する。

 何とかせねば。このままでは、義従姉《あね》や阿戯《あぎ》逹にまで累が及んでしまい兼ねない。

 何か……誰か……。


 襲う朦朧《もうろう》の大波に抗えず、崔衡の意識は落ちた。


◇◇◇


 誰かの手が、自分に触れていた。

 混濁意識の中での感取。その手の動きはゆるり穏やかで、崔衡を労っている風である。


 ―――― 夢……?


 自覚する背の痛み。痛覚があるというからには、夢ではないのか?

 ……よくわからない。もしかして、われはもう、死んでいるのだろうか……。


 ひと組の腕が崔衡の頭をそっと持ち上げ、柔らかな、膝上と思わしき地におろす。

 口元に小さな木匙が運ばれた。


「薬だ。飲め。ゆっくりでいい」


 丁寧な手つきでほんの少しづつ、崔衡の口に匙から薬液が注がれる。崔衡はされるがまま、流し込まれたものをやっとのことで飲み込んだ。


 なん口か、それが繰り返された。

 やがて匙を置いた掌《て》が、崔衡の額を包む。発熱のせいだろう、それは冷んやりと心地良い。


 そして静穏な声かした。


「安心していい。他のふたりも無事だ。済まぬがもうあと少し、辛抱しろ」


 介抱者は崔衡の耳元に唇を近付け、囁く。


「だから、決して死ぬなよ。州平」

「……」


 茫としつつも、崔衡は認識する。この声は……。


 ―――― ……珖明。


 額に添えられた掌は、熱を冷やす温度のはずであるのに、なぜか温かい。

 ……


 その状態でどのくらい経ったか。

 珖明は崔衡の頭を、持参した枕にやんわりと移し置き、横たえた体に肩まで衾《ふすま》をかけると、音もなく立ち上がり、室を立ち去っていった。


 その姿を、全身の怠《だる》さに病む崔衡の瞳が、ぼんやりと追う。


 こんな事はあり得ない。やはりこれは夢だ。

 ……だがきっと、この夢を忘れまい。


 ―――― ……珖明……わたしは、知っているんだ。


 声ならぬ声で呟く。


 ―――― 知ってる……でも、きみはどうして、男の振りなぞしている。……どうし……て……。


 熱か、または薬のせいか。

 崔衡は再び、眠りに落ちた。


◇◇◇


 広元逹も巻き込まれる事態となった、崔家の一大災禍が起きた奇しくも同日。

 もうひとつ、世を攪乱《かくらん》させる大事件の急報が、龐家の隠れ家にいる周瑜に、密かに届けられた。


「しゅ、周様! これを……!」


 馬を変え継ぎ、昼夜を置かず奔らせてきた伝達兵が、身を崩れさせて地に膝を付き、息も絶え絶えにひとつの竹簡を差し出した。


 渡された短い書面を一読したとたん、周瑜は腰を下ろしていた床几を弾き飛ばし、突っ立った。


 蒼白になった貌は、一言も発さない。

 撼《ふる》える両手に開かれた竹簡がそのまま左右に引き裂かれんばかり、カタカタと小刻みな音を立てる。


 あまりに突然な、信じ難き報。


 孫策が、死んだ。



<次回〜 第93話「湯に煙る朱唇《しゅしん》」>

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