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私創 三国志異聞奇譚〔本編〕「銀の黄昏に、白玉の龍が哭く」〜戦乱世を凌駕した美しき龍人の鎮魂歌  作者: 若沙希
第二章 冥漠を裂く赤き鉤月 〜後編「水琴哀鳴(すいきんあいめい)」
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第90話 惑いの棘(とげ)

 檀渓の一件から半月ほどが経った、四月初日。

 その日は日中から、強風が戸口を軋《きし》ませる音が響いていた。


「そうかな。ぼくはちょっと違う気もするが」


 朱刻《しゅこく》(14時)過ぎ頃、自宅で珖明と久々に時事談を交わしていた広元が、珍しく珖明の見解に意義を唱えた。


 何気ない始まりだった会話には、いつしか、やりとりにピリリとした空気が生まれている。

 最近のふたりの間には、どことなく緊張感のようなものが発生しているのだ。


 その所以《ゆえん》について、的確な説明はしづらい。ただ広元にとって周瑜の出現が関係していることは、本人も奥底で自覚していた。


 お互いわざとではなかったものの、話題は自然、自分達にとって直近懸念である、呉の動向に行ってしまう。

 流れの中で珖明が断じた。


「孫策《そんさく》の狙いは、荊州でも陳登《ちんとう》でもないだろう」

「何だって?」


 おぼえず、大きめの声を返した広元。

 周瑜《しゅうゆ》が語った、孫策と陳登との対立は事実だとしても、その先の孫策の目当てはやはり荊州であろう、そう広元は見ていたからである。


「……それなら、孫策は何を狙っていると?」


 広元の問いに若干間を置いてから、珖明は言い切った。


「許《きょ》県(河南省許昌県)だ」

「許……!?」


 愕然《がくぜん》とした。

 そんな見解を聞いて、衝撃を受けぬ者がおろうか。


 曹操《そうそう》の本拠地である許には天子がおわす。そこを狙うということは、孫策の目的が、かつて曹操が行った〈迎立(天子を迎える)〉という意味になるではないか。


「……」


 広元は今一度、思惟を立て直した。

 確かに、北の袁紹《えんしょう》に眼が向いている曹操の隙を衝く、という発想は皆無ではない。

 されど孫策がいかに強気とはいえ、それはあまりに一足飛び過ぎる大胆計略ではないのか。


 言を呑んでいる広元に、珖明の沈着な評。


「孫策の怖いもの知らずは本物みたいだな。『江東の虎』と称された父親の血を、そのまま受け継いでいるようだ」


 語調は穏やかなれど、口にしていることは、世を揺るがしかねない一大事話である。


「曹操と袁紹、どちらが勝利するにしろ、その後の孫策の立場は厳しくなる。その前に手を打ちたいと考えたのだろう」


 薄い唇端が冷ややかに上がった。事情分析を楽しんでいるのだ。


「南から許を衝《つ》くには、江水沿岸では荊州の夏口《かこう》(湖北省武漢市)からが最短だ。夏口を守っていた黄祖《こうそ》と孫策が昨年末やり合ったのは、仇敵ゆえばかりでもなかったようだな。まあ、あのときは孫策の思惑通りに事は進まなかったが」

「……」


 聢《しか》と、整合性のある見立て。

 だが、聞いている広元の表情は重々しい。


 しばしの沈黙後、広元は話の主軸から少しずれたことを訊いた。


「孫策のその意向は、公瑾《こうきん》(周瑜)どのがきみに話したのか?」

「……」


 今度は珖明側が、わずかに眉を顰《ひそ》めた。


 この日の日中、珖明は周瑜に請われて龐邸を訪っていた。


「応じぬと、先方がまた此処へ来てしまうだろう」


 訪問前、淡白に言った珖明。

 そのとき、広元がいまひとつ納得しかねる感覚を持ったのは事実だ。そして今発した広元の問にも ―― 広元には極めて数少ないことだが ―― 微量な棘気《きょくき》が含まれている。


 そこを捕らえているだろうに、珖明はしかしなお、落ち着き払った姿勢を崩さない。


「広元。自軍のそんな極秘事項を、わたしのような無関係第三者に、周瑜の立場で明かすと思うか?」

「……」


 理論的には正しい。……しかれど。


 ―――― 嘘だ。


 逆だ、珖明。本気で得たい人材には、将帥の重要指針は必ず伝える。周瑜はきみに、そんな吝《やぶさ》かな出し惜しみはすまい。


『珖明の本音を、勘繰ってるのか?』


 崔衡の指摘は合っていた。

 合ってはいるが、広元の心理には、もっと複雑な要素が絡んでいる。広元自身でさえ、おのれが総合的に何を望み何をすべきなのか、道筋が俯瞰《ふかん》出来ずにいるのだ。


 ひとつだけ、広元がはっきりと自覚できることがあった。

 珖明と、いつまでも現在のような環境でいるのは不可だ、ということ。


 時は足早に過ぎる。人の生は、突き付けられた岐路都度の選択の連続で進んでいく。

 広元も珖明も、その条理から逃れられはしない。もしかすると最大級かも知れぬ岐路が、まさに訪れているのではないか。


 そして……珖明を縛り付け、その選択を阻んでしまっているのが、もしかしたら……。


「……珖明」


 出来うる限り呼吸を整え、広元は意を決した疑問を遂に口にする。


「周瑜の招致を断っているのは、まこと、本心からなのか?」


 周瑜のことを、あえていつもの字《あざな》ではなく、友人とは切り離した姓名で呼んだ。出仕というのは、極めて政治的な分野なのだ。


「言うまでもないが、きみの並外れた俊才さには、周瑜に限らず多くが気付いてる。それを活かすに相応しい場を得るのは……至極当然だ」

「……」

「きみが、自身を男と定めて生きている本当の理由をわたしは知らないし、それは知らずとも……構わない。ただ仮にそこに何か懸念が ――」

「広元」


 珖明の遮《さえぎ》り。切れ長の眸《ひとみ》が広元を刺す。


「きみの話は支離滅裂だ。いったいわたしに、何を言わせたい」

「……!」


 鋭い指摘に広元は硬直した。

 そうだ。自分の訴えの意図は何なのか。方向を違える枝葉が絡み合い、混乱している。

 珖明の出仕を後押ししようとしているのか。それとも行(・)く(・)な(・)と言おうとしているのか。


 再び言を詰まらせた広元に、珖明は低く、だがはっきりとした語調で。


「周瑜の要請に応じぬことと、わたしの性別は関係ない。わたしは呉にはつかぬ。この先もだ」

「……」


『呉には』と言った。では、他に目的地があるのか? あるならば、それは何処だ。


 ―――― どうして、それが訊けぬ。


 広元は自身の懊悩《おうのう》根本が何なのか、胸裡で薄っすら気付いている。

 なのに……いや、だから、口に出せる適切な言葉が見つからない。


 風に怯えた戸が、がたがたと身を震わせた。隙間風が細く入り込んでくる。


「広元。わたしのことは、いい」


 何か思惑があるのか、この日の珖明は厳しさを緩めない。


「きみ自身の価値を考えるべきだ。荊州にこだわりながら、生家への接近を避けようとする配慮もわかる。だがきみのそれは、消極に過ぎる」


 強風の演出を味方にした気迫。


「きみの持つ条件は、むしろ有益ととらえてしかるべきだろう。今しているような仕事が生涯の生業などではないと、自身で解っているはずだ」

「……」


 容赦が無かった。珖明の心底を引き出したかった広元が、逆に正鵠《せいこく》を射られている。


 ふたりは出会ってから、互いの眉目を険しくする様な言い合いをしたことは、これまで一度もない。

 冷静を通り越して冷ややかさを感じさせるような珖明の言動が、広元の癇《かん》に軽く触れた経験はあった。が、それは珖明が怜悧すぎる故なのだと、広元には、即、理解できてしまう。


 人としての表現温度が低いだけであって、珖明が理屈に合わぬ主張をした記憶は皆無だった。

 常に沈静を失わぬ珖明が、揺れる感情を広元に見せたのは……西の城の乱から逃れた直後、龐山民邸外の夜明け山中で対峙した、あのときだけである。


 ここで珖明に正されたことについて、広元に反言の余地はない。

 しかし珖明の態度が、珖明自身の話題から的を外へと微妙にすり替えていることも、広元は感じ取っている。


 ―――― ……伝えなければ。


 胃の腑あたりを締め付ける苦しさを感じつつ、広元は自身の本意を質《ただ》した。

 ここで、逃げずに伝えねば。これ以上、誤魔化し抱え続けていてはいけない。

 ……


 思い定めた広元が口を開こうとしたとき、戸を激しく叩く音が沈黙を破った。


「広元! いるか!? 」


 ふたりとも同時、音の方を見た。


「わたしだ、元直だ!」


 風音に負けじと響く、戸口外からの切羽詰まった叫び。確かに徐元直の声だ。

 何事かと広元が慌てて開けた戸口前には、額を汗で濡らし、大きく肩息をする徐福《じょふく》が立っていた。


「元直《げんちょく》!? ど、どうした、そんなに慌てて」


 広元が徐福の腕を引いて室内に入れる。徐福がこれほど狼狽する姿は、荊州に移住してこのかた、見たことがない。


 珖明が椀に入れた水を差し出す。その椀も受け取らずに、徐福は呻いた。


「大変だ。州平が、投獄された」



<次回〜 第91話「冤罪」>


【用語解説】

◆許県:建安元年(196年)に曹操が漢の天子・献帝を迎えて遷都した、事実上の首都。

◆夏口:長江と漢水の合流点に位置する要衝。

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