第90話 惑いの棘(とげ)
檀渓の一件から半月ほどが経った、四月初日。
その日は日中から、強風が戸口を軋ませる音が響いていた。
「そうかな。ぼくはちょっと違う気もするが」
朱刻(14時)過ぎ頃、自宅で珖明と久々に時事談を交わしていた広元が、珍しく珖明の見解に意義を唱えた。
何気ない始まりだった会話には、いつしか、やりとりにピリリとした空気が生まれている。
最近のふたりの間には、どことなく緊張感のようなものが発生しているのだ。
その所以について、的確な説明はしづらい。ただ広元にとって周瑜の出現が関係していることは、本人も奥底で自覚していた。
お互いわざとではなかったものの、話題は自然、自分達にとって直近懸念である、呉の動向に行ってしまう。
流れの中で珖明が断じた。
「孫策の狙いは、荊州でも陳登でもないだろう」
「何だって?」
おぼえず、大きめの声を返した広元。
周瑜が語った、孫策と陳登との対立は事実だとしても、その先の孫策の目当てはやはり荊州であろう、そう広元は見ていたからである。
「……それなら、孫策は何を狙っていると?」
広元の問いに若干間を置いてから、珖明は言い切った。
「許県(河南省許昌県)だ」
「許……!?」
愕然とした。
そんな見解を聞いて、衝撃を受けぬ者がおろうか。
曹操の本拠地である許には天子がおわす。そこを狙うということは、孫策の目的が、かつて曹操が行った〈迎立(天子を迎える)〉という意味になるではないか。
「……」
広元は今一度、思惟を立て直した。
確かに、北の袁紹に眼が向いている曹操の隙を衝く、という発想は皆無ではない。
されど孫策がいかに強気とはいえ、それはあまりに一足飛び過ぎる大胆計略ではないのか。
言を呑んでいる広元に、珖明の沈着な評。
「孫策の怖いもの知らずは本物みたいだな。『江東の虎』と称された父親の血を、そのまま受け継いでいるようだ」
語調は穏やかなれど、口にしていることは、世を揺るがしかねない一大事話である。
「曹操と袁紹、どちらが勝利するにしろ、その後の孫策の立場は厳しくなる。その前に手を打ちたいと考えたのだろう」
薄い唇端が冷ややかに上がった。事情分析を楽しんでいるのだ。
「南から許を衝くには、江水沿岸では荊州の夏口(湖北省武漢市)からが最短だ。夏口を守っていた黄祖と孫策が昨年末やり合ったのは、仇敵ゆえばかりでもなかったようだな。まあ、あのときは孫策の思惑通りに事は進まなかったが」
「……」
聢と、整合性のある見立て。
だが、聞いている広元の表情は重々しい。
しばしの沈黙後、広元は話の主軸から少しずれたことを訊いた。
「孫策のその意向は、公瑾(周瑜)どのがきみに話したのか?」
「……」
今度は珖明側が、わずかに眉を顰めた。
この日の日中、珖明は周瑜に請われて龐邸を訪っていた。
「応じぬと、先方がまた此処へ来てしまうだろう」
訪問前、淡白に言った珖明。
そのとき、広元がいまひとつ納得しかねる感覚を持ったのは事実だ。そして今発した広元の問にも ―― 広元には極めて数少ないことだが ―― 微量な棘気が含まれている。
そこを捕らえているだろうに、珖明はしかしなお、落ち着き払った姿勢を崩さない。
「広元。自軍のそんな極秘事項を、わたしのような無関係第三者に、周瑜の立場で明かすと思うか?」
「……」
理論的には正しい。……しかれど。
―――― 嘘だ。
逆だ、珖明。本気で得たい人材には、将帥の重要指針は必ず伝える。周瑜はきみに、そんな吝かな出し惜しみはすまい。
『珖明の本音を、勘繰ってるのか?』
崔衡の指摘は合っていた。
合ってはいるが、広元の心理には、もっと複雑な要素が絡んでいる。広元自身でさえ、おのれが総合的に何を望み何をすべきなのか、道筋が俯瞰出来ずにいるのだ。
ひとつだけ、広元がはっきりと自覚できることがあった。
珖明と、いつまでも現在のような環境でいるのは不可だ、ということ。
時は足早に過ぎる。人の生は、突き付けられた岐路都度の選択の連続で進んでいく。
広元も珖明も、その条理から逃れられはしない。もしかすると最大級かも知れぬ岐路が、まさに訪れているのではないか。
そして……珖明を縛り付け、その選択を阻んでしまっているのが、もしかしたら……。
「……珖明」
出来うる限り呼吸を整え、広元は意を決した疑問を遂に口にする。
「周瑜の招致を断っているのは、まこと、本心からなのか?」
周瑜のことを、あえていつもの字ではなく、友人とは切り離した姓名で呼んだ。出仕というのは、極めて政治的な分野なのだ。
「言うまでもないが、きみの並外れた俊才さには、周瑜に限らず多くが気付いてる。それを活かすに相応しい場を得るのは……至極当然だ」
「……」
「きみが、自身を男と定めて生きている本当の理由をわたしは知らないし、それは知らずとも……構わない。ただ仮にそこに何か懸念が ――」
「広元」
珖明の遮り。切れ長の眸が広元を刺す。
「きみの話は支離滅裂だ。いったいわたしに、何を言わせたい」
「……!」
鋭い指摘に広元は硬直した。
そうだ。自分の訴えの意図は何なのか。方向を違える枝葉が絡み合い、混乱している。
珖明の出仕を後押ししようとしているのか。それとも行くなと言おうとしているのか。
再び言を詰まらせた広元に、珖明は低く、だがはっきりとした語調で。
「周瑜の要請に応じぬことと、わたしの性別は関係ない。わたしは呉にはつかぬ。この先もだ」
「……」
『呉には』と言った。では、他に目的地があるのか? あるならば、それは何処だ。
―――― どうして、それが訊けぬ。
広元は自身の懊悩根本が何なのか、胸裡で薄っすら気付いている。
なのに……いや、だから、口に出せる適切な言葉が見つからない。
風に怯えた戸が、がたがたと身を震わせた。隙間風が細く入り込んでくる。
「広元。わたしのことは、いい」
何か思惑があるのか、この日の珖明は厳しさを緩めない。
「きみ自身の価値を考えるべきだ。荊州にこだわりながら、生家への接近を避けようとする配慮もわかる。だがきみのそれは、消極に過ぎる」
強風の演出を味方にした気迫。
「きみの持つ条件は、むしろ有益ととらえてしかるべきだろう。今しているような仕事が生涯の生業などではないと、自身で解っているはずだ」
「……」
容赦が無かった。珖明の心底を引き出したかった広元が、逆に正鵠を射られている。
ふたりは出会ってから、互いの眉目を険しくする様な言い合いをしたことは、これまで一度もない。
冷静を通り越して冷ややかさを感じさせるような珖明の言動が、広元の癇に軽く触れた経験はあった。が、それは珖明が怜悧すぎる故なのだと、広元には、即、理解できてしまう。
人としての表現温度が低いだけであって、珖明が理屈に合わぬ主張をした記憶は皆無だった。
常に沈静を失わぬ珖明が、揺れる感情を広元に見せたのは……西の城の乱から逃れた直後、龐山民邸外の夜明け山中で対峙した、あのときだけである。
ここで珖明に正されたことについて、広元に反言の余地はない。
しかし珖明の態度が、珖明自身の話題から的を外へと微妙にすり替えていることも、広元は感じ取っている。
―――― ……伝えなければ。
胃の腑あたりを締め付ける苦しさを感じつつ、広元は自身の本意を質した。
ここで、逃げずに伝えねば。これ以上、誤魔化し抱え続けていてはいけない。
……
思い定めた広元が口を開こうとしたとき、戸を激しく叩く音が沈黙を破った。
「広元! いるか!? 」
ふたりとも同時、音の方を見た。
「わたしだ、元直だ!」
風音に負けじと響く、戸口外からの切羽詰まった叫び。確かに徐元直の声だ。
何事かと広元が慌てて開けた戸口前には、額を汗で濡らし、大きく肩息をする徐福が立っていた。
「元直!? ど、どうした、そんなに慌てて」
広元が徐福の腕を引いて室内に入れる。徐福がこれほど狼狽する姿は、荊州に移住してこのかた、見たことがない。
珖明が椀に入れた水を差し出す。その椀も受け取らずに、徐福は呻いた。
「大変だ。州平が、投獄された」
<次回〜 第91話「冤罪」>
【用語解説】
◆許県:建安元年(196年)に曹操が漢の天子・献帝を迎えて遷都した、事実上の首都。
◆夏口:長江と漢水の合流点に位置する要衝。




