第89話 崔衡〈2〉
寸刻、広元は本当に呼吸が止まった。全身の皮膚が一気に粟立つ。
「何のことだ」
解釈の前にとっさに返した。
自身の落ち着かせに努力する。崔衡の言の根拠がどうあれ、これだけは何としてもやり過ごさねば。
だが合わせて、胸奥で悟っていた。
相手は崔衡。崔衡は安易な意識で、そんなことを口にはすまい……。
広元に振り返った崔衡の目顔は、広元とは対照的に、緊張のないものであった。与えた衝撃をつくろう微苦笑を浮かべて、言う。
「そんな厳しい眼をするな、広元。少し注意して接していればわかる。そのくらいのことは」
顔面を目一杯強張らせてまっている広元をなだめるかのように、崔衡は広元の傍らにゆっくり腰を下ろした。
「疑念を持つようになったのがいつ頃からだったかは……定かじゃないが」
確信を得たのは、峴山の洞窟で崖落ち仕掛けた珖明を腕に抱いた、あの瞬間だ。
とはいえ絶対的な確証があったわけでも無く、ましてそんな風変わり人生を歩んでいる訳合など、崔衡には見当もつかない。
ただ、以降の崔衡の眼に、珖明はそう映っていた。
広元は珖明を宛から襄陽まで連れて来た上に、今はふたりで同居までしている。
経緯は崔衡の理解範疇外にしろ、どう見ても秘しているのはわかるし、直接尋ねるのも無粋な話題。そして崔衡自身の認識正誤がどうあれ、事実は変わらない。
そんな判断で、これまで口にしなかった崔衡であった。
広元は顔を伏せ気味にし、黙っている。
―――― 州平はやっぱり……誤魔化せないか。
紅の遠い空に、数羽の鳥が去って行く影が見えた。ねぐらに帰る鳶だろう。その形が確認できぬほど小さくなった頃、広元はやっと口を開いた。
「……宛で初めて出会ったときから、珖明はああだった」
初めて人に語る。ここまできては、もう白を切り通せる段階ではない。そもそも崔衡は、とっくに気付いていたのだ。
「真実をわたしが知ってしまったのは偶然に過ぎないし、子玖さえいまだに、珖明を兄だと思ってる」
「……」
「珖明がそうあろうとする明確な事情はわからない。……けど」
広元は発言を噛みしめるために、ひと呼吸置いた。
「襄陽に伴う前、珖明に誓った。『秘は必ず守る』と。それが現在の形だ。珖明には取りあえずこれが一番……安心だろうから」
「……」
崔衡は深々と広元を視ている。
―――― 広元、きみは……。
清廉潔白な者の存在など、崔衡は本来信じていない。されど広元という男が、愚直なまでの誠実資質を持っているのだということは、事実として受け入れていた。
計算と駆け引きが常の世において、それは生き延び難い要素だろう。だとしても、最後に人が付いて行くのは、こういう人物かもしれない。
……
「そうだったか。……わかった」
崔衡はいつもの彼らしく、両腕をあげて大きな伸びをした。ふうう、と長い息を吐く。
「なら、わたしも何も知らなかったことになるな。今日わたしが言ったことは、忘れてくれ」
「……」
それは無理だろう。広元は苦笑しつつ、それでも荷が軽くなったように感じた。
崔衡の鋭さにはときに緊張もさせられるが、どこか清々《すがすが》しい心強さがある。
〝 親友 〟
……ありきたりな、けれど不変的なことばが浮かんだ。
腕を下ろした崔衡は、皮肉っぽい笑み顔を作る。
「わたしが言っても説得力はないが……心にある思いは、ときに言葉にして伝えた方がいい場合もあるみたいだな、広元」
「ほ。州平がそんな考えに至るなんて、ちょっとした驚きだぞ」
広元も頬をほぐす。そうしてふたり揃って、茜と濃紺が混じり始めた西空の雲を眺めた。
「見事な夕焼けだ。明日は晴れるな」
「うん……しばらくは過ごしやすい季節だ。その先の悪月は勘弁してほしいものだが」
「ああ。今年は洪水が起きないのを願うよ」
穏やかな会話をしつつ、崔衡は今日ここでひとつ、強く認識した事がある。
だが彼はそれを口にする事なく、そのまま胸奥深くに飲み込んだ。
<次回〜 第90話「惑いの棘」>




