第88話 崔衡〈1〉
檀渓を眼下に、広元は依然、黙して崔衡と坐している。今日は会話がはかどらない。
すると、崔衡が。
「三日ほど前、きみの家を訪ねた男がいたろう」
「男……?」
出し抜けな問に、広元は頬杖で支えていた顎を上げ、崔衡を見てしまった。
心奥の狼狽。どうしてそれを、州平が知っている?
広元の反応には気付いているだろうに、崔衡は変わらぬ平静さで続けた。
「あの雨日、わたしがたまたま門前にいたところで、若い男にきみの宅場所を尋ねられた」
「筆耕の依頼だ」
返答がひと呼吸、早すぎた。
「わざわざ、あの大粒風雨の中を?」
崔衡の苦笑。いくら雨季前で低水位でも、そんな日に沔水を渡ろうとする者なぞ、そうはいない。
「蓑姿に笠で装っていたって、あんな雄偉体格、しかもあれほどの秀麗貌では、見流せという方が難しいよ。……それに」
片膝を立てて座った崔衡は、呆れと感心が入り混じる半端な表情をした。
「備わった威風とはときに厄介だな。本人が隠そうとしても、伝わってしまう」
「……」
「あれは、ただ人ではなかろうよ」
広元はここでやっと、崔衡が今日、急に自分を訪ねたわけに気付いた。
『物事に関心が薄い』と外部から評されている崔衡だが、そうではない。むしろ人一倍の洞察力を使っている。ただ、伝える相手を選んでいるだけなのだ。
「……州平」
探られているのではないことが広元にはわかる。崔衡は広元と、そして珖明のことを、友として気にかけてくれているのだ。
「きみに下手な嘘は通じないな。……悪かった」
素直に詫びを入れる一方で、広元はこの先の会話をどう進めるべきか迷った。
居巣での体験を、崔衡に簡易だが話した事はある。とはいえ、昨日見た偉丈夫があの周瑜だとまでは、さすがの崔衡も思い至っていないだろう。
崔衡が口硬く信用に足る人物であることは、広元も充分に認識していた。されど、同居家族が荊州官吏である以上、やはり巻き込むわけにはいかない、とも思う。
勘の鋭すぎるこの友人を前に、この場をどう繕ったものか……。
「広元。崔家に気をまわしてるのか?」
「!」
また、読まれた。広元は自身の不器用さに自嘲する。
―――― 情けないが、わたしは弁士には、まずなれまいな。
観念した。崔衡相手に、しょせん下手な芝居は通用しない。姑息に隠す方が、返って拗れる。
広元は龐邸での一連と、周瑜訪問の概略を崔衡に語った。
途中口を挟むことなく、ひと通り聞きおえた崔衡は、
「なるほど。それはなかなか不意打ちだったな」
上半身をやや後ろに傾け、背後の地面についた両手で支えた。
「広元もわたしも龐士元どのも、荊州吏人に濃く関わっている意味では同じだ。……はは。縛り合いだな」
いつもの冷めた口調で笑い零す。大して思いわずらうようなことでもない、とでもいう調子だ。
その語調の軽妙さに、広元はほんの少しだけ、心安感を得たような気がした。
そうだ。『荊州とは争わぬ』という周瑜の言について、こちらは信じるしかない。少なくとも周瑜は、〈敵として〉現れたのではないのだから。
「で、要するに」
崔衡は、広元の顔色が惛い理由が、そこではないのをさとっている。
「周瑜の目当ては、珖明なわけか」
「……そうだな」
崔衡の表現は端的で、余計な遠慮や装飾がない。普段からそれを気持ち良く感じている広元もまた、率直に答えた。
三日前に広元宅を訪れた周瑜は、広元に会いに来たのではなかった。目的は、珖明への、あらためての招致説得だった。
得られなかった龐統の代役ではない。広元が推察したとおり、周瑜が襄陽まで来た意図に、それは始めから含まれていたのである。
居巣の後も、周瑜はまったく諦めていなかった。それどころか、念いはあの頃よりも増幅していると広元は感じている。
周瑜の現赴任地である巴丘からここまでの遠距離。世情による自身への危険性。それらを越えて、こたび周瑜は、珖明を得ることを極めて明瞭に望んでいたのである。
「それで、珖明は何か答えたか?」
森の広がる対岸の景色に視線を置いた崔衡が訊ねる。
「……断った」
珖明は居巣でのときと同じ理由をもって、周瑜に『呉には行けぬ』と言った。
「ふうん。……そうか」
崔衡は立ち上がると、一歩前へ出、眼下の急流を覗きおろす。……数呼吸の、沈黙後。
「広元。本人が行かぬというなら、それでいいんじゃないか? 何をそう悩み込む」
「別に、悩み込んでなど……」
語尾が、口にした言葉に反してくぐもっていた。
周瑜は訪問した折、広元の出廬も要望した。それが、必ずしも付け足し的なものではないことは、広元も理解している。
なれど広元は石家両親が存命である限り、且つ、生まれたばかりの義弟がある程度成長するまで、荊州から離れるという選択肢を持っていない。
―――― けど、珖明は。
珖明にとって故郷でもない荊州。身近に子玖がいるとはいえ、珖明はこの地に対する固執もしがらみも、本来持っているはずはなく、とどまる特別な根拠は見当たらなかった。
しかも……本人が口にしたことはないが、珖明も周瑜の魅力を認識していることにまず相違はないと、広元は感取できてしまう。
ついでに言ってしまえば、珖明はこれといった後ろ盾を持たぬ、いわば無位無官の若輩者でしかない。
対しての周瑜は名門血胤、しかも、今や曹操が懐柔策に気を配るほどに天下への実も伴ってきている、一大勢力・孫策軍での、名声伴う最高将なのだ。
それだけの男にここまでまで請われるなど、普通なら多少なりと、心を動かされるのが自然といえるものを……。
『わたしは、孫候と共なる道を歩める者ではありません』
珖明が周瑜に放った言。穏やかでありながら、確としていた。
それでも広元は、どこか引っかかっている。
―――― 周瑜に応じぬ理由は、本当にそれだけなのか?
そうしてそこで、広元は根本的な……誰にも決して話せぬ、あの最大疑問に行き着くのだ。
珖明は何故、自身の真の性を打ち消す選択をし続けているのか。
誰もが目を見張る殊色と才智、加え異様な闇剣技の持ち主は、胸裏深くに何を念い、いったいどこを目指しているのだろう?
……
頭上真上よりだいぶ傾きかけた陽が、いつの間にか朱味を帯び始めている。
崔衡は、朱光を受ける背を広元に向けつつ、片手を腰に当てた立ち姿勢で、長い広元の沈黙に付き合い……やがて口を開いた。
「珖明の本音を勘繰ってるのか? それとも危惧してるのか。珖明が出仕したら、の後を」
指摘に、広元は覚えず、ぞくとした。
手前側の深い事情などほぼ知らぬはずなのに、この男はどうしてこんなに、人の心情を見透いてしまうのだろう?
夕暮に向かう空を見上げ、崔衡は続ける。
「孫策軍は確かに勢いがある。だが返して言えば、それは極めて危ういということでもあるわけだ。孫策のいる場は常に戦場、敵陣の中だからな」
崔衡が世事や他者事の件を語るのは、かなり珍しい。
―――― そのとおりだ。
広元は胸裏で首肯する。
戦国期に逆戻りしたような現今、どこで生きようと安穏は得にくい。だが、力のある将帥に仕えたいならば、曹操や袁紹、さもなくば身近な劉表の方がまだ、ましなのではないか。
そんな強引発想を頭に浮かべた広元に対し、崔衡が次に発した言の葉は、広元にはまったく想定外のものであった。
「そんな中に飛び込ませるのは、案じられてならないか。……女の身を」
<次回〜 第89話「崔衡〈2〉」>
【用語解説】
◆巴丘:現在の江西省吉安市峡江県。
◆曹操:後漢最後の皇帝・献帝を保護した実力者。後に三国時代の一国、魏の始祖となる。
◆袁紹:冀州牧。名門袁氏一族の総帥。後漢末期の戦乱世の最大勢力者。




