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私創 三国志異聞奇譚〔本編〕「銀の黄昏に、白玉の龍が哭く」〜戦乱世を凌駕した美しき龍人の鎮魂歌  作者: 若沙希
第二章 冥漠を裂く赤き鉤月 〜後編「水琴哀鳴(すいきんあいめい)」
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第88話 崔衡〈1〉

 檀渓《だんけい》を眼下に、広元は依然、黙して崔衡《さいこう》と坐している。今日は会話がはかどらない。

 すると、崔衡が。


「三日ほど前、きみの家を訪ねた男がいたろう」

「男……?」


 出し抜けな問に、広元は頬杖で支えていた顎を上げ、崔衡を見てしまった。

 心奥の狼狽《ろうばい》。どうしてそれを、州平が知っている?


 広元の反応には気付いているだろうに、崔衡は変わらぬ平静さで続けた。


「あの雨日、わたしがたまたま門前にいたところで、若い男にきみの宅場所を尋ねられた」

「筆耕の依頼だ」


 返答がひと呼吸、早すぎた。


「わざわざ、あの大粒風雨の中を?」


 崔衡の苦笑。いくら雨季前で低水位でも、そんな日に沔水を渡ろうとする者なぞ、そうはいない。


「蓑《みの》姿に笠《かぶりがさ》で装っていたって、あんな雄偉体格、しかもあれほどの秀麗《しゅうれい》貌《ぼう》では、見流せという方が難しいよ。……それに」


 片膝を立てて座った崔衡は、呆れと感心が入り混じる半端な表情をした。


「備わった威風とはときに厄介《やっかい》だな。本人が隠そうとしても、伝わってしまう」

「……」

「あれは、た(・)だ(・)人(・)ではなかろうよ」


 広元はここでやっと、崔衡が今日、急に自分を訪ねたわけに気付いた。


 『物事に関心が薄い』と外部から評されている崔衡だが、そうではない。むしろ人一倍の洞察力を使っている。ただ、伝える相手を選んでいるだけなのだ。


「……州平」


 探られているのではないことが広元にはわかる。崔衡は広元と、そして珖明のことを、友として気にかけてくれているのだ。


「きみに下手な嘘は通じないな。……悪かった」


 素直に詫びを入れる一方で、広元はこの先の会話をどう進めるべきか迷った。


 居巣(きょそう)での体験を、崔衡に簡易だが話した事はある。とはいえ、昨日見た偉丈夫があの周瑜(しゅうゆ)だとまでは、さすがの崔衡も思い至っていないだろう。


 崔衡が口硬く信用に足る人物であることは、広元も充分に認識していた。されど、同居家族が荊州官吏である以上、やはり巻き込むわけにはいかない、とも思う。

 勘の鋭すぎるこの友人を前に、この場をどう繕ったものか……。


「広元。崔家《うち》に気をまわしてるのか?」

「!」


 また、読まれた。広元は自身の不器用さに自嘲する。


 ―――― 情けないが、わたしは弁士には、まずなれまいな。


 観念した。崔衡相手に、しょせん下手な芝居は通用しない。姑息に隠す方が、返って拗《こじ》れる。

 広元は龐邸での一連と、周瑜訪問の概略を崔衡に語った。


 途中口を挟むことなく、ひと通り聞きおえた崔衡は、


「なるほど。それはなかなか不意打ちだったな」


 上半身をやや後ろに傾け、背後の地面についた両手で支えた。


「広元《きみ》もわたしも龐《ほう》士元《しげん》どのも、荊州吏人に濃く関わっている意味では同じだ。……はは。縛り合いだな」


 いつもの冷めた口調で笑い零す。大して思いわずらうようなことでもない、とでもいう調子だ。

 その語調の軽妙さに、広元はほんの少しだけ、心安《うらやす》感を得たような気がした。


 そうだ。『荊州とは争わぬ』という周瑜の言について、こちらは信じるしかない。少なくとも周瑜は、〈敵として〉現れたのではないのだから。


「で、要するに」


 崔衡は、広元の顔色が惛《くら》い理由が、そ(・)こ(・)ではないのをさとっている。


「周瑜の目当ては、珖明なわけか」

「……そうだな」


 崔衡の表現は端的で、余計な遠慮や装飾がない。普段からそれを気持ち良く感じている広元もまた、率直に答えた。


 三日前に広元宅を訪れた周瑜は、広元に会いに来たのではなかった。目的は、珖明への、あらためての招致説得だった。

 得られなかった龐統の代役ではない。広元が推察したとおり、周瑜が襄陽まで来た意図に、それは始めから含まれていたのである。


 居巣の後も、周瑜はまったく諦めていなかった。それどころか、念いはあの頃よりも増幅していると広元は感じている。


 周瑜の現赴任地である巴丘《はきゅう》からここまでの遠距離。世情による自身への危険性。それらを越えて、こたび周瑜は、珖明を得ることを極めて明瞭に望んでいたのである。


「それで、珖明は何か答えたか?」


 森の広がる対岸の景色に視線を置いた崔衡が訊ねる。


「……断った」


 珖明は居巣でのときと同じ理由をもって、周瑜に『呉には行けぬ』と言った。


「ふうん。……そうか」


 崔衡は立ち上がると、一歩前へ出、眼下の急流を覗きおろす。……数呼吸の、沈黙後。


「広元。本人が行かぬというなら、それでいいんじゃないか? 何をそう悩み込む」

「別に、悩み込んでなど……」


 語尾が、口にした言葉に反してくぐもっていた。


 周瑜は訪問した折、広元の出廬も要望した。それが、必ずしも付け足し的なものではないことは、広元も理解している。

 なれど広元は石家両親が存命である限り、且つ、生まれたばかりの義弟がある程度成長するまで、荊州から離れるという選択肢を持っていない。


 ―――― けど、珖明は。


 珖明にとって故郷でもない荊州。身近に子玖《しく》がいるとはいえ、珖明はこの地に対する固執もしがらみも、本来持っているはずはなく、とどまる特別な根拠は見当たらなかった。


 しかも……本人が口にしたことはないが、珖明も周瑜の魅力を認識していることにまず相違はないと、広元は感取できてしまう。


 ついでに言ってしまえば、珖明はこれといった後ろ盾を持たぬ、いわば無位無官の若輩者でしかない。

 対しての周瑜は名門血胤(ちすじ)、しかも、今や曹操が懐柔策に気を配るほどに天下への実も伴ってきている、一大勢力・孫策軍での、名声伴う最高将なのだ。


 それだけの男にここまでまで請われるなど、普通なら多少なりと、心を動かされるのが自然といえるものを……。


『わたしは、孫候と共なる道を歩める者ではありません』


 珖明が周瑜に放った言。穏やかでありながら、確としていた。

 それでも広元は、どこか引っかかっている。


 ―――― 周瑜に応じぬ理由は、本当にそれだけなのか?


 そうしてそこで、広元は根本的な……誰にも決して話せぬ、あの最大疑問に行き着くのだ。


 珖明は何故、自身の真の性を打ち消す選択をし続けているのか。

 誰もが目を見張る殊色《ししょく》と才智、加え異様な闇剣技の持ち主は、胸裏深くに何を念《おも》い、いったいどこを目指しているのだろう?

 ……



 頭上真上よりだいぶ傾きかけた陽が、いつの間にか朱味を帯び始めている。

 崔衡は、朱光を受ける背を広元に向けつつ、片手を腰に当てた立ち姿勢で、長い広元の沈黙に付き合い……やがて口を開いた。


「珖明の本音を勘繰ってるのか? それとも危惧してるのか。珖明が出仕したら、の後を」


 指摘に、広元は覚えず、ぞ(・)く(・)とした。

 手前《こちら》側の深い事情などほぼ知らぬはずなのに、この男はどうしてこんなに、人の心情を見透いてしまうのだろう?


 夕暮に向かう空を見上げ、崔衡は続ける。


「孫策軍は確かに勢いがある。だが返して言えば、それは極めて危ういということでもあるわけだ。孫策のいる場は常に戦場、敵陣の中だからな」


 崔衡が世事や他者事の件を語るのは、かなり珍しい。


 ―――― そのとおりだ。


 広元は胸裏で首肯する。


 戦国期に逆戻りしたような現今、どこで生きようと安穏は得にくい。だが、力のある将帥に仕えたいならば、曹操《そうそう》や袁紹《えんしょう》、さもなくば身近な劉表の方がまだ、ま(・)し(・)なのではないか。


 そんな強引発想を頭に浮かべた広元に対し、崔衡が次に発した言の葉は、広元にはまったく想定外のものであった。


「そんな中に飛び込ませるのは、案じられてならないか。……女の身を」



<次回〜 第89話「崔衡〈2〉」>

【用語解説】

◆巴丘《はきゅう》:現在の江西省吉安市峡江県。

◆曹操(そうそう):後漢最後の皇帝・献帝を保護した実力者。後に三国時代の一国、魏の始祖となる。

◆袁紹(えんしょう):冀(き)州牧(ぼく)。名門袁氏一族の総帥。後漢末期の戦乱世の最大勢力者。

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