第87話 周瑜の目的
三月の鳥とされる秭鳺は、鋭く忙しない鳴き声で知られ、その生態や伝説から、一般にあまり縁起よく思われていない、少々気の毒な鳥である。
晩春となるこの月の中旬、その鳥声も黙らせるような荒天が三日間続いた。
まるで、まもなく訪れる高気温と、長雨によって人の生活を脅かす時期を迎えることへの、警鐘のようでもある。
そんな嵐がやっと静まってから二日後、まだ雲を多く残す夕刻前。広元は襄陽界隈の景勝地である檀渓を、そのほとりの岩上に坐して眺めていた。
壇渓水は、西側の近くにある柳子山を源流とする。そこからの清流と他からもくる湧水とが合流し、『鴨湖』と呼ばれる大きな湖沼を成していた。
鴨湖から流れは北と東のふたつに分かれ、檀渓水は北へ流れて、本流の沔水に注いでいる。
鴨湖から出てすぐのこの場所で、川幅は急に狭くなる。そのせいと、ここ数日の雨による増水とで生まれた激流が、両岸にそびえる岩壁を荒々しく洗っていた。
「何やら浮かない顔だな。どうした」
掛けた声は、崔衡。
未刻(14時)頃に広元宅を訪ねてきた崔衡とともに、広元はこの場所へ来ている。
「別に、何も」
眼下の急流に視線を落としたまま、広元は気の抜けた返事をした。
いや……違う。『何も』など嘘だ。返事とは逆しま、今の広元は気が抜けているどころではない。
龐氏邸での宴から六日。この間に起きた一連の出来事を、広元は胸中で懸命に咀嚼してきたものの、まだ、処理しきれないでいる。
そんなとき、崔衡が突然訪れた。
崔衡が事前の約束も無く顔を出すなど珍しいというのに、広元は訪問の理由も尋ねず、逆に崔衡を壇渓に誘った。
自身の抱える気分を押し流す渓流の流れでも見たかったのが、正直な心境だったのだ。
勇ましい景観を眼下に、広元は六日前の場面を、脳裏に繰り返し再現している。
――――『大胆不敵』ってのは、周瑜のためにあるような言葉だな。
現今情勢のさなか、荊州、しかも劉表膝下の襄陽に単身潜入するとは、度胸を通り越して無謀に近い。
「襄陽でわたしの人相を知る者など、特におるまい」
あの折、驚愕しっ放しの広元に見せた周瑜の余裕貌。言外に『この場に居合わせる者の他には』と付け加わっていた。広元達が他言しないことを、周瑜は見越している。
むろん広元はこの秘密を明かすことなど出来ない。周瑜は命の恩人なのだ。
なれど、石家父は荊州官吏であり、広元個人が荊州臣下でないとにしても、そこには強い関係性があった。
広元は龐統を一瞥する。
―――― 龐統は、これから南郡官吏になる身だ。
龐統の直属上官は南郡太守、その上は荊州牧・劉表である。
龐統が周瑜といくら縁深い間柄とはいえ、これは、直近の敵将ともいえる者を自邸に匿っているという、危うすぎる形ではないか。
矛盾した立ち位置にいる龐統は、いったいどういうつもりであろう。そして龐統を推挙した師匠・司馬徽は、このことを承知しているのか。
不可解さを隠せぬ広元の面様を、周瑜がとらえた。
「案ずる必要はない、広元。きみらの師は何も知らぬ」
有無を言わせぬ強い気。もとよりそういう性格要素を持つ周瑜だが、この二年間に、将としてより確固たる実績を積み重ねてきたことで、その精悍ぶりは数倍増していた。
「取り逃がした黄祖が、孫氏の仇敵であるのは変わらん。が、それはそれ。呉候(孫策)は、もう荊州と事を交えない。呉候の目下最大の敵は、陳登に移っている」
「陳登?」
出た名の意想外さに、広元が反復する。
広陵太守の陳登は、善政者としての評が高いと聞こえる一雄である。陳登の力添えにより、曹操はそれまで手を焼いていた猛将、呂布を討伐出来たとの風聞だった。
ここで、珖明がこの日初めて政治的な話題を口にした。
「そういえば孫候と陳登とは、最近、江南の覇を争う敵対関係にありましたね」
どこから得ているのか不詳なのだが、珖明が語る情報は基本的に常、精度が高い。
広元は腕を組む。
―――― 周瑜の説明が真実なら……孫策は荊州侵攻を諦めた、ということか?
宿敵黄祖を打ち払った、あれほど勇往邁進な若い将が、そう簡単に方向転換をするだろうか。
周瑜は美麗な口角を上げてみせた。
「為ん方無いが、呉候と陳登とは相性が悪い。そちらの戦は避けられんだろう。ゆえに今一度、士元を迎えたいと考えて来たのだが……ひと足遅かったようだな。荊州に仕官してしまったとは」
諦笑。受けた龐統は、手を後頭部に当てて顎を引いた。
「申し訳ございませぬ、公瑾様。これも若造の経験と、寛大にお許しいただきたい」
「是非も無い。……だがこの先、こちらの敵にはなってくれるなよ」
「まさかまさか。身のほどはこの龐統、わきまえておりまする」
聞いている方は笑えぬ会話だ。にもかかわらず、ふたりの空気感は居巣でのそれと変わりなかった。
広元は改めて感じ入っている。
周瑜の人材蒐集意欲が並でないのは、周知の事実。魯粛の例しかり、周瑜は必要とあらば、身分や距離にかかわらず、自ら出向く。
龐統を得にはるばる来たという説明に、嘘はないと思えた。それこそ、周瑜らしい行動だ。
……確かに、らしい、のだが。
―――― 本当に、龐統だけが目的か。
そんなはずはないだろうことを、そのときすでに、広元は察知していた。
<次回〜 第88話「崔衡」>
【用語解説】
◆太守:郡の長官。
◆呂布:三国時代随一の猛将として恐れられた人物。
◆陳登:時流の中で多くの将に仕え、文武と胆志を兼ね備えた名臣と称される。




