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私創 三国志異聞奇譚〔本編〕「銀の黄昏に、白玉の龍が哭く」〜戦乱世を凌駕した美しき龍人の鎮魂歌  作者: 若沙希
第二章 冥漠を裂く赤き鉤月 〜後編「水琴哀鳴(すいきんあいめい)」
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第86話 舞姫

 場に酒気が満ち始めた頃。宴の余興だという音楽が始まった。


 耳に心地よい、緩やかな音色から入る楽曲。

 このような場面のための演奏専用か、宴会室入口と薄絹の幕で仕切られた隣室からするのは、二張の琴と笛一菅の協奏だ。


 やがてその絹幕を捲《めく》った奥から、艶やかな衣に身を包んだひとりの女子が身を現した。

 楚々(そそ)と、長く豊かな裾を揺らせ、客人の前に進み出る。


 つつしみ深く顔を伏せる舞姫《ぶき》。

 音高く鳴り上がった琴弦の合図に呼応し、面を上げた。纏《まと》う薄絹の紗地《さじ》を泳がせて、舞い始める。


 まだ十代と思われる桃顔はあどけない。

 結い上げた髪を彩る歩揺《ほよう》(簪《かんざし》)が揺れ、愛らしさを演出していた。されどその所作は、少女でありながら、すでに大人の色香も秘めている。


「ほう……」


 おぼえず小息をついたのは、徐福。

 彼だけではない。場の一同が皆、そよ風のごとき可憐な足運びに魅入る。

 龐家夫人の好みに合わせているのであろう、楽《がく》も含め、それはゆったりと優雅な美しい舞であった。


 広元もまた、蝶の羽ばたきを思わせる軽やかな動きをみつめる。


「……」


 広元がこのような舞を見るのは、初ではなかった。

 遠い過去……幼い頃の、おぼろげな記憶。


 ―――― ……母上。


 己の産み母の細白い姿が、目前の舞姫に重なる。


 広元の母は、幼き頃に生家から荊州南郡中盧(ちゅうろ)侯国(こうこく)の相《しょう》(宰相)へ、妓女《ぎじょ》(芸能を披露する女性)見習いとして献上された、官技《かんぎ》(州管轄の妓女《ぎじょ》)であった。

 さらに侯国相の重臣へと下賜《げし》、すなわち重臣の妾《しょう》となる。


 その立場で広元の母となった彼女は、生活には不自由しなかったものの、長命しない。亡くなったのは、広元がまだ六歳になるかならないかの頃である。

 そして母の死から間をおかずして、広元は実父の友人であった穎川《えいせん》の石家へ預け出され、以後、石家の義息として育ったのだ。


 少女の、歩を踏む軽い音と衣擦れを耳にしつつ、広元はぼんやりと、母の記憶を辿っている。


 実は、成長してからの広元が母のことを憶い起こすことは、普段あまりない。

 母が逝ったときの広元が幼少過ぎたせいだけでなく……母の影が、あまりに儚《はかな》かったせいであろう。


 それでも、舞を前にした彼の脳裏には久方、母の優美な舞姿が結ばれた。


 ―――― 母上は……わずかでも幸せだったろうか……?


 母についての思い出を巡って行き着く先は、いつもその問いかけで終わる。

 ……


 ヒュルリ、高い笛音が鳴った。それを合図に、少女の舞が初めの静けさから一転する。


 楽の高まりに合わせ、動きが相乗して速まった。

 舞人独特の衣装である長い袖が、生き物のようなうねりの軌跡を描き、やがて中心一点を軸に、くるくると回転しだす。


 回る舞姫の身を囲い、袖が渦を巻き始めた。その速さは、観賞者の目線を追いつかせない。

 観ている方が目を回しそうだ……そう思った次瞬、回転が突如止まった。

 直後に高く弾き上がった弦声《げんせい》と同時、舞姫は両腕で、その長い袖と羽織る紗地を、高く天へ向かい放り上げた。


 二筋の薄絹袖(そで)と透きとおった紗地帯《さじおび》が、ひらひらと舞い落ちる。

 その軌跡を追う楽の余韻が、室内の空気に深く染み込み、溶けていった。


「……」


 誰も、言葉を発さない。

 終演に静まりかえる中、舞姫は再び顔を腕中に伏せ、登場時を逆巻きして、素足の音も無く後退りしながら、元の絹幕裏に消えていった。



「どうした、広元」

「……え?」


 閑雅な間《ま》に徐福からかけられたの声で、広元は目覚めたように瞬かせた眼を上げる。


「ずいぶんと真剣に魅入っていたぞ。まあ確かに、可憐だったな」

「そんな、別に……そんなことはない」


 子供っぽい郷愁を見透かされたような気がして、広元は軽く咳払いした。

 広元より一歳年長である徐福は、ふっくらと笑む。


 広元と徐福は幼い頃暮らした潁川時代からの長い付き合いで、言葉使いにも隔たりは無い仲だ。

 その昔、軽挙な任侠心《にんきょうしん》から殺人を犯した徐福を周囲が避ける中、唯一交友を許してくれたのが広元であった。

 徐福にとって、妙な気遣いを要さない広元は、つい、揶揄《からか》いたくなるときがある。


 和む空気に、龐統両親も目を細めた。そうして、


「さて、年寄りには酒が過ぎたようです。お許し願えれば、わたくしどもはここで下がらせていただくとします」


 初老の龐家当主はおもむろに立ち上がり、夫人の手をとる。


「まだ夕刻前、あとは若い者同士、心ゆくまで語りあってくだされ」


 穏やかな面持ちの龐家夫妻と、母親を気遣う龐林《ほうりん》は座を後にしていった。

 彼らを見送った司馬徽《しばき》もまた、辞去を申し出る。ならばと弟子達も続こうとしたところを、司馬徽が押し留めた。


「ここでお開きにしては、返って御夫妻に失礼であろう、そなた達は今しばらく居させていただくが良い。友人の久々の再会なのだ、わたしがおらぬ方が弾む話もあろうて。……好々(よしよし)」


 広元は匿笑《とくしょう》した。

 年端的には自分と大差ないというのに、師はやはり、なんとも貫禄が違う。


 司馬徽は徐福にも、残るがよい、と促《うなが》したが、


「いえ、そうはいきませぬ」


 徐福はそう言って、司馬徽と行動を供にした。

 一度は世からはみ出た経験を持つ徐福は、そこから学問で自分を救ってくれた司馬徽を、師以上の存在ととらえているようであった。


挿絵(By みてみん)



「結局、居巣《きょそう》つながりの三名が残りましたな」


 龐統《ほうとう》が腰に両手を当て、この状況を想定していたかのか、にっと口端をあげた。

 師の姿が消えるまで立っていた広元と珖明に、あらためて席を勧める。


 広元も再び腰を降ろし、ほっと息をついた。龐統両親や師の前では、やはり少なからず緊張していたかと認める。


 侍女が、三名の卓上の耳杯に酒を注いでいく。……と、広元は、隣の珖明がまだ坐してしない事に気付いた。珖明は席傍(かたわら)に突っ立ったままだ。


「珖明、どうした?」

「……」


 広元の問いには答えず、珖明は龐統に向かい。


「士元どの。少し失礼をよろしいでしょうか」


 龐統は訝《いぶか》しげな眉を作りつつも、耳杯《じはい》の酒を含み、何も言わずにうなずく。

 珖明は座の後方に位置する楽室口へ歩みを進め、仕切りの絹幕前で立ち止まった。


 ―――― 珖明? 何を……。


 意図が読めぬ広元が、その行動を見守る。

 珖明はやや顎を上げ、次に何を思ったのか、絹幕に向かって語り掛け始めた。


「こちらの見物をなさるのが目的ですか」


 まったく意味不明な発言。広元はぽかんと、口を半開きにしてしまった。

 どうやら、絹幕の奥にいる誰かに向かって話しているようなのだが、そこにいるのは、楽師たちと、先ほどの舞姫であろう。


 広元は説明を求める視線を龐統に遣る。龐統は無言のまま、相変わらず酒をあおっているだけだ。


 珖明の問いかけは続く。


「身を隠すお心心算(づもり)であれば、初めからこの場で演奏など、なさいますまいに」


 低く平静な声音。しかしわずかな辣《きび》しさを含んでいた。

 楽の音の止まっている隣室からは、なんの応答も返ってこない。


 珖明はそこで、柔らかい語調に変えた。


「……そちらには女子もおられるのですから、わたしから踏み込むわけにも行きませぬが」

「はっはっは」


 珖明の語尾に重ねた明笑が、楽室からした。


「一度の経験記憶だけで聴き分けたか。さすが、良い耳をしている」


 爽やかな男の声。


 ―――― え……!?


 広元は卓に手をつき、前のめりに両膝立ちになった。聞き覚えのある声だ。


 ―――― ま……まさか……!?


 絹幕をさらりと捲《く》って、体格のよい人物が楽室から現れた。つかつかと歩み、珖明の真向かいに立つ。


 質素な平衣……しかれど、一瞥《いちべつ》でわかる。

 鍛え抜かれた強靭《きょうじん》な体躯。雄強だが荒々しさとは違う威厳の気。

 そして、この上なき秀麗な眉目。


 信じ難い展開に姿勢を固めた広元は、ひと言も出せない。

 代わりに、当の男が挨拶の弁を発する。


「久方ぶりだな、珖明」

「……」


 珖明は、相手の強い眼光を無言で受け止めている。

 男はにやりと口端を上げ、余裕ある音吐と眼差しを、座にいるふたりに注いだ。


「広元も元気そうで何よりだ。……士元もな」

 

 広元はまだ瞠目している。事態の理解に思考を巡らせようとするのが、精一杯なのだ。


 忽然《こつぜん》と見せられた英姿。それは、この場にいるなどあり得ぬはずの者。

 周瑜《しゅうゆ》 ―― 公瑾《こうきん》。



<次回〜 第87話 「周瑜の目的」>

【用語解説】

◆侯国:皇族や列侯に封建された領地(県)。本人ではなく朝廷から任命された侯国相が統治。

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