第86話 舞姫
場に酒気が満ち始めた頃。宴の余興だという音楽が始まった。
耳に心地よい、緩やかな音色から入る楽曲。
このような場面のための演奏専用か、宴会室入口と薄絹の幕で仕切られた隣室からするのは、二張の琴と笛一菅の協奏だ。
やがてその絹幕を捲った奥から、艶やかな衣に身を包んだひとりの女子が身を現した。
楚々と、長く豊かな裾を揺らせ、客人の前に進み出る。
つつしみ深く顔を伏せる舞姫。
音高く鳴り上がった琴弦の合図に呼応し、面を上げた。纏う薄絹の紗地を泳がせて、舞い始める。
まだ十代と思われる桃顔はあどけない。
結い上げた髪を彩る歩揺(簪)が揺れ、愛らしさを演出していた。されどその所作は、少女でありながら、すでに大人の色香も秘めている。
「ほう……」
おぼえず小息をついたのは、徐福。
彼だけではない。場の一同が皆、そよ風のごとき可憐な足運びに魅入る。
龐家夫人の好みに合わせているのであろう、楽も含め、それはゆったりと優雅な美しい舞であった。
広元もまた、蝶の羽ばたきを思わせる軽やかな動きをみつめる。
「……」
広元がこのような舞を見るのは、初ではなかった。
遠い過去……幼い頃の、おぼろげな記憶。
―――― ……母上。
己の産み母の細白い姿が、目前の舞姫に重なる。
広元の母は、幼き頃に生家から荊州中盧侯国相(知事)へ、妓女(芸能を披露する女性)見習いとして献上された、官技(州管轄の妓女)であった。
さらに侯国相の重臣へと下賜、つまり妾となる。
その立場で広元の母になった彼女は、生活には不自由しなかったものの、長命しない。亡くなったのは、広元がまだ六歳になるかならないかの頃である。
それから間をおかずして、広元は実父の友人であった穎川の石家へ預け出され、以後、石家の義息として育った。
舞を眺めながら、彼はぼんやり、母の記憶を辿っている。
実は、成長してからの広元が母のことを憶い起こすことは、普段あまりない。
母が逝ったときの広元が幼少過ぎたせいだけでなく……その影が、あまりに儚かったせいであろう。
それでも今、少女の舞を前にした彼の脳裏に久方、母の優美な舞姿が過ぎった。
―――― 母上は……わずかでも幸せだったろうか……?
母についての思い出を巡って行き着く先は、いつもその問いかけで終わる。
……
ヒュルリ、高い笛音が鳴った。それを合図に、少女の舞が初めの静けさから一転する。
楽の高まりに合わせ、動きが相乗して速まった。
舞人独特の衣装である長い袖が、生き物のようなうねりの軌跡を描き、やがて中心一点を軸に、くるくると回転しだす。
回る舞姫の身を囲い、袖が渦を巻き始めた。その速さは、観賞者の目線を追いつかせない。
観ている方が目を回しそうだ……そう思った次瞬、回転が突如止まった。
直後に高く弾き上がった弦声と同時、舞姫は両腕で、その長い袖と羽織る紗地を、高く天へ向かい放り上げた。
二筋の薄絹袖と透きとおった紗地帯が、ひらひらと舞い落ちる。
その軌跡を追う楽の余韻が、室内の空気に深く染み込み、溶けていった。
「……」
誰も、言葉を発さない。
終演に静まりかえる中、舞姫は再び顔を腕中に伏せ、登場時を逆巻きして、素足の音も無く後退りしながら、元の絹幕裏に消えていった。
「どうした、広元」
「……え?」
閑雅な間に徐福からかけられたの声で、広元は目覚めたように瞬かせた眼を上げる。
「ずいぶんと真剣に魅入っていたぞ。まあ確かに、可憐だったな」
「そんな、別に……そんなことはない」
子供っぽい郷愁を見透かされたような気がして、広元は軽く咳払いした。
広元より一歳年長である徐福は、ふっくらと笑む。
広元と徐福は幼い頃暮らした潁川時代からの長い付き合いで、言葉使いにも隔たりは無い仲だ。
その昔、軽挙な任侠心から殺人を犯した徐福を周囲が避ける中、唯一交友を許してくれたのが広元であった。
徐福にとって、妙な気遣いを要さない広元は、つい、揶揄いたくなるときがある。
和む空気に、龐統両親も目を細めた。そうして、
「さて、年寄りには酒が過ぎたようです。お許し願えれば、わたくしどもはここで下がらせていただくとします」
初老の龐家当主はおもむろに立ち上がり、夫人の手をとる。
「まだ夕刻前、あとは若い者同士、心ゆくまで語りあってくだされ」
穏やかな面持ちの龐家夫妻と、母親を気遣う龐林は座を後にしていった。
彼らを見送った司馬徽もまた、辞去を申し出る。ならばと弟子達も続こうとしたところを、司馬徽が押し留めた。
「ここでお開きにしては、返って御夫妻に失礼であろう、そなた達は今しばらく居させていただくが良い。友人の久々の再会なのだ、わたしがおらぬ方が弾む話もあろうて。……好々」
広元は匿笑した。
年端的には自分と大差ないというのに、師はやはり、なんとも貫禄が違う。
司馬徽は徐福にも、残るがよい、と促したが、
「いえ、そうはいきませぬ」
徐福はそう言って、司馬徽と行動を供にした。
一度は世からはみ出た経験を持つ徐福は、そこから学問で自分を救ってくれた司馬徽を、師以上の存在ととらえているようであった。
「結局、居巣つながりの三名が残りましたな」
龐統が腰に両手を当て、この状況を想定していたかのか、にっと口端をあげた。
師の姿が消えるまで立っていた広元と珖明に、あらためて席を勧める。
広元も再び腰を降ろし、ほっと息をついた。龐統両親や師の前では、やはり少なからず緊張していたかと認める。
侍女が、三名の卓上の耳杯に酒を注いでいく。……と、広元は、隣の珖明がまだ坐してしない事に気付いた。珖明は席傍に突っ立ったままだ。
「珖明、どうした?」
「……」
広元の問いには答えず、珖明は龐統に向かい。
「士元どの。少し失礼をよろしいでしょうか」
龐統は訝しげな眉を作りつつも、耳杯の酒を含み、何も言わずにうなずく。
珖明は座の後方に位置する楽室口へ歩みを進め、仕切りの絹幕前で立ち止まった。
―――― 珖明? 何を……。
意図が読めぬ広元が、その行動を見守る。
珖明はやや顎を上げ、次に何を思ったのか、絹幕に向かって語り掛け始めた。
「こちらの見物をなさるのが目的ですか」
まったく意味不明な発言。広元はぽかんと、口を半開きにしてしまった。
どうやら、絹幕の奥にいる誰かに向かって話しているようなのだが、そこにいるのは、楽師たちと、先ほどの舞姫であろう。
広元は説明を求める視線を龐統に遣る。龐統は無言のまま、相変わらず酒をあおっているだけだ。
珖明の問いかけは続く。
「身を隠すお心心算であれば、初めからこの場で演奏など、なさいますまいに」
低く平静な声音。しかしわずかな辣しさを含んでいた。
楽の音の止まっている隣室からは、なんの応答も返ってこない。
珖明はそこで、柔らかい語調に変えた。
「……そちらには女子もおられるのですから、わたしから踏み込むわけにも行きませぬが」
「はっはっは」
珖明の語尾に重ねた明笑が、楽室からした。
「一度の経験記憶だけで聴き分けたか。さすが、良い耳をしている」
爽やかな男の声。
―――― え……!?
広元は卓に手をつき、前のめりに両膝立ちになった。聞き覚えのある声だ。
―――― ま……まさか……!?
絹幕をさらりと捲って、体格のよい人物が楽室から現れた。つかつかと歩み、珖明の真向かいに立つ。
質素な平衣……しかれど、一瞥でわかる。
鍛え抜かれた強靭な体躯。雄強だが荒々しさとは違う威厳の気。
そして、この上なき秀麗な眉目。
信じ難い展開に姿勢を固めた広元は、ひと言も出せない。
代わりに、当の男が挨拶の弁を発する。
「久方ぶりだな、珖明」
「……」
珖明は、相手の強い眼光を無言で受け止めている。
男はにやりと口端を上げ、余裕ある音吐と眼差しを、座にいるふたりに注いだ。
「広元も元気そうで何よりだ。……士元もな」
広元はまだ瞠目している。事態の理解に思考を巡らせようとするのが、精一杯なのだ。
忽然と見せられた英姿。それは、この場にいるなどあり得ぬはずの者。
周瑜 ―― 公瑾。
<次回〜 第87話 「周瑜の目的」>




