第83話 峴山の主〈3〉
「ここが州平の『陋屋』か」
天井を仰視した珖明は、そのまましばらく佇立していた。
暗闇の危険道を抜けた先に、突と開けた光の間。
珖明の見上げる上部には、切り取られた空の青がある。
そこは、地上にぽっかりと掘られた袋状地形の底部分。
地下でありながらも、岩々を枠とした自然の天窓からの、何筋かに分かれた陽の帯を受け入れていた。
珖明の足元では、か細い緑たちが、健気な身を主張している。
「今日は晴れてるから、かなり明るいな」
手傘をする崔衡が、同じく天窓を見上げた。
珖明は細い顎を上へ向かわせたまま、つくづくと。
「なるほど。見つけるのも辿り着くのも、たしかに至難だな」
「これは付け足しの庭のようなものだ。室は脇にある。狭いぞ」
崔衡は袋空間の壁に空いたひとつの横穴に入っていった。珖明もそれに続く。
やや奥まった行き止まりの場所に着くと、崔衡が中の燭台に燈を灯した。
薄明かりに照らされた小さな室。
中には床几と書道具、多数の書、そして簡易な牀台までしつらわれている。
どうやら崔衡は、この場所で寝泊りもしているようだ。
「ここを見つけた最初には、奇天烈な書物や調剤道具やらが残されていた。どこぞの道士が、修行でもしていたのかもな」
「……」
道士(道教修行者)の目指すひとつに〈煉丹術〉がある。いわゆる不老不死薬の調合だ。
荒唐無稽としか思われないその存在を信じる者は多い。かの始皇帝も、生涯をかけ切望した神薬である。
「それで州平も鍛錬しているわけか。まるでこの辺りの主だな」
珖明の言は、戯言とも本気とも聞こえる。崔衡がまさか、と軽妙に笑い飛ばした。
「はっは、そんなに根気強くないよ、わたしは。この場所は外からの邪魔がなくていいから、利用しているだけだ」
崔衡は珖明に座をすすめると、『庭』に出て、先ほど獲た魚の焼き準備を始めた。
耳杯と焼き上がった魚の乗った卓上で、細い燈がときおり身を揺らしている。
山塊の地下、横穴は見た目では行き止まりになっているが、小さな燈を消すことはない程度の空気の流れが起きているようだ。
……加えて。
〝 ぴとん……ぴと、ぴとん……とん……ととん…… 〟
「……?」
気付いた珖明は耳を澄ませる。
幽かに、微小の雫が不規則に平らな水面を叩いているような、奥行きを感じさせる涼音がしていた。
出所は、洞室奥の暗闇の先……。
「いい効果音だろう」
ひそやかな音を邪魔することのない、崔衡の質良い低声。
「人はこの先に行けないが、たぶん岩壁の向こうにも空洞があって、水溜りか地底湖でもあるんだろう。そこに天井から水滴が落ちているんだ」
「……」
「わたしは勝手に〈水琴〉と呼んでる」
「……水の琴」
本物の琴音はもっと硬質感がある。されど弦の素材は絹であるから、指腹で優しく弾けば、聞こえているものに近い印象音が、生まれるかもしれない。
崔衡にしては、ずいぶんと風流な名をつけたものだ、と珖明は思った。
「たしかに……陋屋に似合う演出だな」
静謐に響く音色は、気分を落ち着かせる。
ここは人工音の届かぬ、外部から切り取られた世界。
なれど孤独は感じない。本物の孤独とは、己の周囲に声や音がある中でこそ、自覚させられるものだ。
崔衡は、それを解している。
珖明の向かいの岩壁に、崔衡の火影が薄く投影されていた。
その影の中、壁に立て掛けられている一振りの刀が珖明の視覚に入る。暗さで明瞭ではないが、柄にはなかなかの装飾が施されている様に見えた。
「……兄の形見だ」
珖明の視線先を一瞥した崔衡は、忠直と称賛されつつ若くして逝った兄、崔鈞についてを短く語る。
「兄は、銅臭官吏に落ちぶれた父を恥じていた。それでも『父上の仇を取る』と言って、病床でずっと天井を睨んでいたんだ。気概があったよ。最後まで」
城門校尉として長安を守備していた崔衡の父親は、董卓の暗殺直後、天子を奪おうと暴徒化した董卓残党の李傕、郭汜らによって、多くの官吏と共に殺害された。
その惨劇は、珖明も聞き及んでいる。
「崔一族は常に帝に付いていたのだろう。許に遷都された際、州平はなぜ、帝に付いて許へ行かなかったんだ?」
「……遷都ね」
王朝の危機報を知った曹操は、機転を利かせていち早く天子を『救い』、その効力をもって、都を雒陽でも長安でもない、己の勢力圏である潁川郡・許県に移した。
年号はその年に〈建安〉と改められる。
建安元年。
それは珖明が宛の西の城にいた時期……広元と初めて出会い、やがて襄陽に来ることになった、始まりの年。
卓上の灯盞を見つめ続ける崔衡が、静かに答える。
「父も兄も、最後は王朝に尽くして死んだんだ。見方はあるが、忠臣と言えるだろう。……でもわたしは」
彼はまるで、卓上燈と対話しているかのようだった。
「あんな腐った朝廷のために命をくれてやるなんて、そんなめでたい男にはなれん」
「……」
「それに、曹操という男もあまり好きになれなかったからな。父と重ねたわけではないが」
曹操の父・曹嵩は、霊帝時代、崔衡の父・崔烈同様、大金で位を買い、崔烈の後任の太尉となった男である。
「特に荊州に思い入れがあったわけじゃない。地理が雒陽からの途上にあったし、他地よりはましと聞いていたという程度だ」
「……そうか」
常に世をはすから見ているような崔衡だが、彼の言には虚偽が無かった。
必要なことをただ端的に語る。世辞や諂いなど、この男には終生無縁であろう。
「やっぱり変り者だな、きみは」
珖明の短笑。評された崔衡は、そこでやっと珖明に目を移すと、
「『変り者』のきみに、そう言われたくはないぞ」
心外そうに反言し、塾師風に背筋を伸ばす。
「だいたい珖明はもう少し愛想良くしないと。せっかくの美形が大損だ」
「損?」
「媚びがないのはいいが、『若造のくせにお高い』だの『斜に構えてる』だの、勝手に品定めされてはつまらないだろう」
「……別に」
興味なさげに、珖明は岩ばかりの黒い天井を見上げ、こぼす。
「しかし愛想のなさでは、州平に叶わないと思うけどな」
「―― !」
とうとう、崔衡が噴き出した。
互いの短所指摘の応酬というばかばかしさに、珖明も珍しく笑い合う。
仄かな水泡音だけが響く洞の小さな空間で、普段寡黙なふたりの青年に、平穏な時が流れていた。
<次回〜 第84話「龐家の祝席〈1〉」>
【用語説明】
◆李傕:天子を擁立して権力を握るも、同僚の郭汜と争い、最期は曹操に殺された。
◆郭汜:董卓の死後、李傕らと共に朝廷を支配したものの、やがて争い、曹操に滅ぼされる。




