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第82話 峴山の主〈2〉

 常闇とこやみ。狭い足場の岩は水に濡れ、滑る。


「足元を常に、炬火たいまつで確認しながらな」


 珖明が崔衡に案内に従って歩んでいるのは、さきほどの沢から少し奥まった場所に入口のあった、真っ暗な洞窟内だ。


 山塊である峴山の地下には、大小多数の洞が穿うがっていると言われるが、全体像を知る者はいない。

 ふたりのいるこの洞も、特に名も持たぬそのひとつであろう。


 光の届かぬ闇道を、崔衡は慣れた様子で進む。

 幅の狭い通路の頭上には低く岩が迫り、一般に長身者が多いと言われる河北人の崔衡、彼より若干丈高の珖明、ふたりともかなり屈まねば歩けない。


 崔衡の隠れ室とやらがこの洞内にあるのか、それとも抜けた先にあるのか読めぬまま、珖明は入口で崔衡の用意した炬火を左手に持ち、窮屈さに閉口しながらも、おとなしく後に付いて行っている。


「とにかく、何があっても炬火を手放すなよ」


 崔衡が念を押す。


 洞内は言うまでもなく正真正銘の黒闇、あかりがなければ左右も上下も判らない。ここでの灯は、まさに命綱なのだ。

 故に崔衡は万一の予備を考え、自身だけでなく珖明にも炬火を持たせていた。


 ところで、後ろの友人を気遣いつつ歩む崔衡には、気に掛かったことがある。


 ―――― もしや珖明、閉所や暗闇が苦手だったか……?


 闇など意に介さないたちだろうと、一方的に決め込んでいた。

 それが……先刻洞入口を前にしたとき、珖明の気色に突として、強い躊躇ちゅうちょが現れたふうに、崔衡には見えたのだ。


 それは瞬時で掻き消えたものの、微妙なその様子は、怯えというより何か()()()に近かった気もする。


 ―――― 考えすぎか。


 普段感情を外に見せる場面がほとんどない相手。確認できない崔衡の胸中には、いささか消化不良のような感覚が残されていた。


 洞内の気温は一年を通して大体の一定さを保っており、人にとって夏は涼しく、冬は暖かく感じられる。

 ただし大雨が降ると、時間差で伝った雨水が岩の隙間から滲み出し、それこそ豪雨のように洞内に降り注ぐのだ。


 雨季を過ぎれば、そういう状況になることはほとんど無くなる。


「これからの乾期が、ここの旬だな」


 珖明の前を行く崔衡の声音が、奇妙な軽快さを含んでいる。


 珖明は、失笑しそうになるのを抑えた。

 蝙蝠こうもりも巣食っているだろう、陰湿ともとれるこんな場所を崔衡は気に入っているらしいのだから、なかなかに物好きな男だ。


 頭上の岩を潜るように歩き続け、ふたりはやがて、圧迫感のない、普通に背を伸ばせる少し開けた空間に出た。


 暗さで全体構造の確認は出来ない。

 左手は崖になっているのか、底のわからぬ黒い空間が口を開けていた。足場の道は、右側にある大岩に沿って造られた桟道のようだ。


 崔衡は左手に炬火を持ち、右手を岩に沿わせてその道を二、三歩進む……と、そこで急に立ち止まった。


「この道は特に凹凸がきつくて、初めてにはかなり厄介だ」


 珖明を振り返り、炬火を持つ左腕のひじを突き出す。


「わたしの腕を取れ。ちゃんと掴んでろよ」

「……」


 珖明が、壁に添えていた自身の右手で崔衡の腕をとらえようと、一歩を踏み出した直後だった。

 珖明の身体がぐらりと左横に滑り動いた。足下に転がっていた不安定な石を踏み外したのだ。


「あっ……!!」


 とっさに出された珖明の下腕を崔衡はわし掴む。


「珖明!」


 自ら『絶対に手放すな』と言っていた炬火を放り出し、崔衡は黒い空間側に大きく傾きかけた珖明の身体を、力一杯引き寄せた。


 一息の間。岩壁に背を付け珖明を胸に抱えた格好で、崔衡は激しく肩を上下させる。


「あ……はあ」


 息を整えながら、助かったと自覚した崔衡は、(あご)を仰げて大息を吐いた。

 そして次に彼の目端に入ったのは、自身の右側でゆれる火だ。


「!?」


 それは、崔衡が腕に抱えている珖明が手にしている炬火であった。

 こんな状況で珖明は、驚愕にも、炬火を手放さなかったのだ。


 ―――― なん……と……。


 崔衡に伝わるのは、腕中の者が震えも動揺も起こしていない様子だということ。

 動揺しているのは、むしろ崔衡の方である。


 口を半開きにした唖然顔しか作れないでいる崔衡に、珖明の平静な声音。


「手放すなと言ったろう。命綱だからと」

「……」


 崔衡の理解が入り乱れる。

 その『命』をたった今失いかけたというのに、この冷静さはどこからくるのか? 我でさえ、灯を放してしまっているものを。

 ……

 

 一度深く長い息を吐き出してから、崔衡は珖明の肩に回していた腕の力を抜いた。


「まったく、きみは」


 決まりが悪そうに、口を半笑いの弧にする。


「きみの肝が強いのはわかったよ。……でもこういう場面じゃ、ちょっとした悲鳴ぐらいあげるものだぞ。……男でもな」



<次回〜 第83話「峴山の主〈3〉」>

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