表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
81/82

第81話 峴山の主〈1〉

 秋に入り急激に下がり始めた襄陽の気温下降は、日を追うごとにその加速度を上げる。


 またたく間に初冬十月、冬の準備に寒服への衣替えをする月になった。夏季に集中した雨は極端に減り、これからは乾燥期となる。


 青空のの正刻(午前十時)頃、崔衡さいこうは小さな荷袋を片肩に掛け、独り、ゆったりとした歩を踏んでいた。

 吐く息はまだ白づかないものの、暦は立冬直前。肌に触れる空気が冷んやりとした張りを持ち始めている。


 ―――― さすがに、もう水には入れんな。


 そう思うよしに、崔衡は自嘲気味な笑いを零す。


 あの水難事故からひと月以上が経っているというのに、義従姉の機嫌は、まだ完全には復していない様子であった。

 もともと家で必ずしも円満とも言えぬ立ち位置だった崔衡は、それでこのところ、余計、家に居づらい。


 風に呼応した竹林や照葉樹が、さわさわと乾いた音を奏でる。

 紅や黄で彩っていた秋の樹々はすっかり葉を落とし切り、崔衡を囲む今の景色は、華やかさを失った、冬季へと向かう色合いであった。


〝ピー、ヒョロロロ―― 〟


 頭上高くから、良く通る口笛のような伸びやかな鳴き声。

 崔衡は頭を仰げる。


 翼を大きく広げ、気流に乗って弧を描き旋回する、青空に映える雄壮な数羽の姿があった。


 ―――― 裏翼端に白い模様……とびだな。


 鳶は鷹に似るが、大きさはだいぶ小さい。

 とはいえ鷹と同じく気性の荒い猛禽であり、屍肉も食すことから、権力象徴として人気のある鷹と比べると、あまり人にいい印象を持たれていない鳥だ。


 独特の鳴き声は、縄張り誇示と侵入者への威嚇といわれる。

 それでいて、その声色はどこか長閑さえ感じさせて美しい。特に繁殖期である春には、頻繁にその声を森隅々に響かせる。


 狩も一羽で行う単独性の高いこの猛鳥には、奇妙な習性があった。

 夜になるとどういうわけか集団を作り、一箇所の同じ()()()で眠るというのだ。


 ―――― 昼は絶対群れない、孤立主義のくせに。


 崔衡は立ち止まって、不可解な習性を持ち合わせた彼らの披露するその飛翔を、片時、ゆるりと眺める。


 さらに歩を進めた彼は、やがて峴山けんざんふもとに辿り着いた。


「変わらずいい構えだ、峴山よ」


 目前に(そび)える山に、崔衡は挨拶した。


 峴山は襄陽城から東南五里(約2km)弱の地にある、高さはそれほどなくも、極めて険しい山塊である。

 こちらの色合いも、既に冬支度を始めていた。

 といっても、この山は元々常緑樹が多く、岩を覆う樹々は冬でも青い。それらは峴山の特徴たる荘厳さを演出する、重要要素になっている。


 ―――― あの孫堅(そんけん)がここで死んでから、七年になるか。


 現在の江東を折檻している若き将・孫策、その父である孫堅が横死したのは、ここ峴山であった。


 峻烈な地形を活かし、戦の謀策にも利用される地であるため、いくつかの軍事的施設が常備されている。


 なれど、それらも深刻な使われ方をせずに済んだ状態のまま、ずいぶん時が経っていた。

 そういう側面から見れば、峴山は劉表統治下たる荊州の象徴地ともいえた。


 自然景観としての峴山は、猛々しく雄壮で頼もしい。

 そのため荊州の豪族は、こぞって峴山を背とする麓に豪邸を建てていた。〈権力者たる氏の証〉を見せつける名物地帯といったところだろう。

 

 ただ、富豪一族が開発し居住する地域や、渓谷沿いにある竹林の作るわずかな平地以外、つまり峴山そのものは、足場が悪く落石も頻繁で、一般人は普段あまり寄り付かない。

 山裾はごろごろと大小無数な岩の群れとなっていて、その岩の間を細流が縫っている。

 崔衡が今立っている足下もそうであった。


 ―――― 秋も過ぎて、だいぶん水量が減ったか。 


 勝手知ったる庭のように、崔衡は岩から岩を軽快に跨ぎ飛んで、谷間奥へと入って行く。

 実は峴山、乾期なら崔衡が月に一度は訪れる、彼の行きつけ場であった。


 いつもの道程をなぞりながら、しばらく行ったときだ。


「……ん?」


 前方にある丸みを帯びた白っぽい大岩の上に、坐している人の背がひとつ見えた。


 ―――― 釣り人か。


 見張り兵以外にこの辺りで見かける人影といえば、食料調達に励む狩人か、物好きな隠者か……でなければ山賊くらいだ。


 まだ真っ昼間、さすがに山賊でもなかろう。それでも崔衡としては、面倒の種は避けたい。


 ―――― 少し、遠回りするか。


 迂回しようと処しながら、再度大岩上の影を一瞥した彼はそこで、


「あ!?」


 岩上の者が誰かを認知して、足を止めた。


 白岩の上で片膝を立て、沢に簡素な釣り糸を垂れていたのは、思いつきもしなかった人物――珖明であった。


◇◇◇


「釣りなんぞ、する方だったか?」


 相手が珖明とわかり、自然傍らに寄った崔衡は声をかけた。

 言いながら、心内で意外に思っている。

 珖明と釣り……?  

 崔衡の中で、いまひとつ結び付いていない。


 珖明は訪問者に驚くこともなく、沢の速い流れに視線を置いたまま、独語のように応じた。


「釣りは、悪くない。良い時間をくれる」

「……」


『珖明は朝から何処かへ出掛けた』


 あの水難の日、広元がそう話していたのを崔衡は思い出す。それは『時折ある』とも。


 ―――― 行き先は、ここか。


 なるほど。場所そのものは珖明らしいと言えば、らしい。


「そうか。今日はいい釣り日和だからな」


 そう言って珖明の坐る岩上を見回した崔衡は、おや、と眉を歪ませた。

 釣り人の傍らには魚籠も無ければ、何かを釣り上げたあとも見られない。


「なんだ。一匹も釣れてないのか?」

「……」

「渓流は難しい。流れも魚も動きが早い」

「……」


 崔衡なりに一応慰めるつもりであったのだが、珖明は反応しない。

 間に困った崔衡は、彼にしては珍しく戯言ぎげんを当てた。


「ここからは習池しゅうちが近い。あそこの釣台なら釣り放題だ。行ってみるか?」


 『習池』とは、荊州きっての豪族、習氏所有の養魚場のことである。


 いにしえから養魚は盛んな産業で、有力豪族は皆、自所有の池を持っていた。

 南郡で一番の養魚池を持つ豪族が習氏だ。峴山の南にある手入れされた習池には、釣台があると言われる。


 たしかにそこなら釣り放題だろうが、そもそも大豪族の釣台になぞ、部外者が入れるわけがない。

 崔衡の意を酌みとった珖明は、ようやく頬をゆるめた。


「数は少ないが、釣れたものは皆、即放った。食すためにしたのではないから」

「……」


 強がりには聞こえない。本当だろう……そう思ったとき、渓流音に混じっての低い位置から、何かの動物らしき特徴的な声が、崔衡の耳に聞こえた。


〝ジジ、ジョイ、ジュジュジュ――――〟

  

 辺りを見遣ると、少し離れた岩上で、ずんぐりとした小ぶりの黒い塊がひとつ、小刻みに動いていた。

 河烏かわがらすのようだ。


「はは。釣り仲間かいるみたいだな、珖明」


 警戒心の強い河烏が、人の目にとまる位置にいるのは珍しい。この距離で見るのは、崔衡も初めてであった。


 潜水の得意な河烏は、冬の冷水など否ともせず首を突っ込み、自由に動き回って獲物を捕獲する鳥。

 そこから『冬川の主』とも称される。


 珖明が口端を軽く上げる。


「さっきからずっと、あの辺りをうろうろしてる。案外賢い鳥だな」

「賢い?」

「わたしの放つ魚を狙ってるんだよ」

「……」


 河烏が人を利用するなどあり得ないと思いつつ、珖明の口から話されると、多少奇抜な話であっても、『そうか』と頷いてしまいそうになる崔衡である。


 おこぼれ待ちの河烏を目で追っていた崔衡は、つとと思い付いたように言った。


「その竿、ちょっと貸してくれないか」

「? ……ああ」


 珖明は餌のついたままの竿を引き上げ、崔衡に差し出す。


「ありがとう……少し待っててくれ」


 受け取った崔衡は、珖明の横に片膝を立ててしゃがんだ。尻はつけていない。そうしておもむろに、目前の渓流へと竿を差した。


 その姿勢で動きを固めた崔衡。糸が水に消えている一点をじっと観つめている。


「……」


 緊迫感に珖明も引き込まれ、肩を並べて、いっしょに息を殺す。


 ゆっくりの呼吸。……ひとつ、ふたつ、みっつ……五つ目! 

 瞬時まばたきも追いつかぬ早業で、崔衡の腕が鋭く撥ね上がった。


「あ」


 珖明が小さく零す。

 竿糸の先端で暴れ動く銀色の身を、崔衡が掌中におさえていた。


鯿魚へんぎょだ。痩せてるな……この時期じゃ仕方ないが」


 崔衡は慣れた手付きで、糸先の針から獲物を外す。鯿魚はこの辺りの美味な特産魚だが、旬はもっと先、冬の終わりから春にかけてである。


 珖明は珍しく眼を見開き、崔衡の所作をまじまじと見ている。

 初めて見るその表情に、崔衡はつい口角を綻ばせた。


 珖明もたまには、()()()のある目顔をするものだ……。


 崔衡はそれから、短時間でもう二匹釣り上げた。すべて鯿魚だ。

 彼は手持ちの荷袋から取り出した小籠にそれらを収めると、借りた竿を珖明に返し、言う。


「きみが要らないなら、こいつらは今夜のわたしの食扶持くいぶちにさせてもらうよ」


 柔らかな喜色。

 崔衡にしてみれば、実のところ、それらは竿など使わずにでも得るつもりだった獲物だ。もし珖明が欲しいというのであれば、また獲ればいい。


「……この沢にずいぶんと慣れてるんだな、州平は」


 普段淡白な珖明も、先ほどからずっと、崔衡の一挙手一投足を珍しそうに見澄ましている。


「そりゃあ、襄陽ここはきみより古いからな」


 珖明がいつ頃から此処へ通っているのかは知らないが、少なくとも峴山では、崔衡の年季の方が上だ。


 ……さて。

 この不意な展開がひと通りすんだ感のある崔衡は、先に行こうと思う。

 珖明とて、独りで此処にいた理由はあるだろう。


 そう考えたにもかかわらず、去りかけた崔衡の口から次に出たのは、本人にしても予定外なものであった。


「一緒に来てみるか?」

「……?」


 渓流相手にまだ時間を過ごすつもりであったか、再び腰を降ろしていた珖明が崔衡を見上げる。


「近くにわたしの陋室ろうしつがある。きみが良ければ招待する。ただし場所は他言無用だ」

「……」


 えらく勿体ぶった言いまわしに、珖明は寸瞬不可解げな目色をしたが、次にはその瞳に小さな笑みを灯した。


州平きみの隠しべやか」


 珖明はすらり、立ち上がった。



<次回〜 第82話「峴山の主〈2〉>

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ