第80話 放浪癖の男
「すまない、広元。きみまで、義従姉に頭を下げさせてしまった」
着替えを済ませた崔衡が、広元に詫びる。
「いや、その場にいたんだからぼくも同罪だよ。ともあれ阿戯も大事に至らなくて、本当に良かった」
広元が笑む。
崔邸に運ばれた阿戯を即時に診た医者が、
「まだ幼な子で油断はできませぬが、まあ大丈夫でしょう」
と言ってくれたことで、一同はほっと胸を撫で下ろしたところであった。
最悪事態を避けられたのは幸いだったのだが、阿戯の母親である崔衡の義従姉だけは、そう簡単に感情を収めなかった。
『監督不行届きだ』と、猛烈な剣幕で崔衡を責めた。
我が子の命に関わる事故なのだから、心情としては理解できる。とはいえどうやら彼女、なかなかに気性が激しいらしい。
激昂の場に同席していた広元は、自身が責められたわけではないながら、自らも崔衡に連座して、徹頭徹尾、謝罪した。
他家の者にまでそう頭を下げられ、さすがの鬼の激情も維持できなくなったようで、やっとのこと怒気を抑えてくれたのだ。
「なかなか厳しい義理従姉様のようだな」
趙䰟《ちょうこん》が、さばけた態で歯を見せた。別室にいた趙䰟にも、義従姉とのやり取りはほぼ筒抜けだったようである。
「騒がしい声が聞こえてしまいましたか。醜態をお恥ずかしい」
事故現場当事者の男三人、一緒の炉炭(火鉢)を囲む場で、崔衡は額を指でさすった。
細白い女子前で頭を垂れている大の男ふたりの姿は、外から見たらかなり情けないものであったろう。
広元が崔衡の肩を叩く。
「まあ、州平に怒れるのは、きみも無事だったからなんだ。そう考えれば、家族の幸いな一幕と言えるよ。趙䰟のおかげだ」
先ほど崔家は、一家全員で恩人に拝跪し、感謝を表した。
通りすがりの趙䰟のとっさ行動がなければ、阿戯と崔衡、ふたりとも溺死していたかもしれないのだ。
水難事故は丸く収まったとして、本日の展開に一番驚いているのは、実は広元である。
「しかし、趙䰟があんなに泳ぎ達者とは。考えもしなかったよ」
崔家一同に趙䰟を一応紹介した広元、既知と言っても、実際には趙䰟について、それほどには知らなかった。
『趙』という姓は古から由緒ある姓で、河北に多い。あの偉丈夫、趙雲も北方の豪族であった。
―――― 趙䰟の『䰟』は、字と言ってたな。
二文字が多い字が一文字というのは珍しい。他人が特段知る必要もないと言える彼の諱(本名)は、広元も知らないままだ。
趙䰟について他に知っている情報と言えば、広元と同齢、現在の前の都・雒陽が間近の司州・河内郡出身、あちこち放浪暮しをしている……という、本人からの自称くらいであった。
ただ、自馬所有なことや、身形、軽口っぽく聞こえながらも低俗さを感じさせない言葉使いからしても、下賤階層者でない印象はある。
―――― そう言えば……あの列肆主人の仕事を持ってきたのは、趙䰟だったな。
どういう繋がりか、趙䰟は襄陽のちょっとした実力者とも、そこそこ交流があるらしい。
その趙䰟が、まだ乾かぬ髪を乾布で荒っぽく拭く。
「泳ぎは、南方にも行ったことがあるからさ。あちらでは水に怯えていたら生活に困る」
全身ざんぶと濡れきってしまった崔衡と趙䰟の髪は、髪を乾かすために緇撮(頭頂部の結い髪)が解かれていた。通常なら他人に魅せるべき姿ではないのだが、この際仕方ない。
もっとも、人前で下着一丁になってしまえるような趙䰟は、そもそも人の目をさほど気にしている風でもなかった。
「それにしても、河北人の水嫌いは本物なんだな。きみらふたり共、そんな立派な躰をしていて」
広元と崔衡は、ばつが悪そうに顔を見合わせる。
同じ中原以北の者に指摘され、今回については立つ瀬がない。
崔衡が真っ先に水に入った勇気は褒められるとしても、おそらく趙䰟から見れば、泳ぎとは程遠かったに違いないだろう。
「生まれ風土もわかるが、河川沿い住まいなんだから。少しは水に慣れておいても損はないと思うぞ」
からりとした趙䰟の言。真面目に肩を竦めている目の前ふたりの様子が、だいぶん可笑しく映ったようだ。
「まあ、言われてみればそうかもな」
笑み返しながら、広元は久々に接した友の発する独特な空気を味わっている。
―――― 相変わらず、どうにもつかみ所のない男なんだが。
この風来青年、正体に謎が多いにもかかわらず、不思議と胡乱な気を持ち合わせない。洒々落々としたそれは、いわゆる自由人の気質とでもいうものだろうか。
昨年出会った当初から、広元は趙䰟に対し、何とはなしに好感を持っていた。
恵まれた長躯に加え、旅で鍛えられているのだろう、筋肉も相応についた、なかなか褒めに値する体格をしている。
加え顔立ちも鼻筋が通り、切れ上がった賢そうな眼は、珖明のそれと少し似ていた。
大袈裟に例えれば、珖明に多分な男子らしさを付加して仕上げたような、かなり美男な造りだ。
そんな見かけも、印象に功を奏しているのかもしれない。
彼伝手で受けた張氏の仕事は、結果的に難ありとなってしまったが、あれはこちらの好み都合とも言えよう。
そんな趙䰟の軽妙な弁が続く。
「荊州も相当立派な水軍を持ってると聞いてるが……はは、きみら、江東軍相手の戦には立ち会えんな」
「戦現場なんて、仮に泳げたってごめん被るよな、州平」
負けずに返しつつ、広元は趙䰟の一語に気をとめる。
――――『江東軍』か……。
広元にとっては、少し懐かしい。
江東江南の地で軍を率いるあの周瑜も、きっと〈水〉を得意としているのだろう。
居巣で別れた後、おそらく周瑜とともに会稽に渡ったと思われる魯粛や龐統。
彼らは今頃、どうしているか。……
髪もだいぶん乾いてきた趙䰟は、崔家が出してくれた熱酒をぐいと飲み干した。
「それにしても相変わらず平穏だな、襄陽は」
「此度は、どこを旅したんだ?」
広元が興味津々で尋ねる。趙䰟はさっきの川岸で『久々の襄陽』と言っていた。
「主に官渡辺りだ」
「官渡!?」
「今一番熱い地の先取り見物だな」
「……」
広元の息が引き締まる。
周瑜も語っていた、目下の二大勢力である袁紹と曹操の対立が、二年を経て、いよいよ本格化していた。
この夏、袁紹が曹操の本拠地、許への攻撃を仕掛けたのである。
襄陽から北東に位置する官渡は、これから始まるであろう、二雄対峙の最要衝になるであろうと見積もられる地だ。
「戦が始まってからの見物はさすがに厳しいからな。だがまだ布陣だけで、曹操自身も官渡にはいないようだ。多分、年越しの長期構えだろう」
「……」
その戦、一旦始まれば、この戦乱期始まって以来の大戦となる可能性が高い。
どちらが勝利するとしても、この大陸に生きるすべての人の運命を左右することに繋がる。
……無論、荊州にとっても。
「ところで広元。あの麗人、今日は一緒じゃないのか?」
唐突に趙䰟が、ここでの話題空気に反する呑気な話題を投げた。
『麗人』とは言わずもなが、珖明を指している。
「朝から出掛けてる。……それはいいが」
急な振りに答えつつ、広元は口を尖らせる。
「珖明へのそういう呼び方は控えろよ、趙䰟」
『麗人』は基本、女人対象に使う言葉だ。
「なぜ? 玉姿は玉姿だ、見ていて目の保養、気分がいい。襄陽へ来るのは、珖明を拝むのが楽しみだからだぞ」
もちろん趙䰟の言は故意。口許が明るい。珖明の容姿話題となると、広元が妙に敏感になるのを承知していて、揶揄っている。
趙䰟の態度に余計渋い顔をする広元と、安心しろ、本人には言わないよ、と朗笑する趙䰟。
そんなふたりを、崔衡は傍らで静やかな面のまま、黙って見守っていた。
<次回〜 第81話「峴山の主」>




