第79話 水難
「兄様、兄さまーっっ!!」
幼い弟が必死に叫んでいる。
駆けつけた崔衡と広元の前、川面から既に少し離れた先の水面に、顔と腕を出し溺れかけている子どもの姿があった。
「阿戯!」
発声と同時、崔衡は水に入っていた。
追おうとする弟を広元が抑え抱える。脇では家僮が対処が見つからずに、ただおろおろとしているばかりだ。
荊州の気候といっても、広大面積を誇る州であるからまとめてしまうことはできないが、全般に言えるのは『雨量が夏に集中している』ことである。
今は八月。季節的な増水期は過ぎ、水深が浅くなり始めているとはいえ、夏の名残の水量はまだまだ残っていた。
「州平! 平気か!?」
広元の声に焦りが滲む。
中原以北出身者は、基本、泳ぎが不得手であった。
河川の多い荊州、さらに河川利用を生活の主軸としている南部人とは対照的に、水に入る経験を生涯持たぬことも一般的だ。水入自体を蛮行とする風土があるからである。
崔衡も河北人。おそらく泳ぎなどしたことがないだろう。
では、広元はといえば。
襄陽は荊州の中で北部に位置するものの、沔水の豊かな水運と共に生きる土地であり、この辺りで生まれ育った者ならば、基本的に水が苦手ではないのが普通と言える。
されど広元、出生こそは荊州でも、幼少期から育ったのは中原なのだ。このような水難になど、対応できるはずがなかった。
胸あたりまで水に浸かりつつの崔衡が叫ぶ。
「阿戯、後ろに岩だ! 岩にしがみつけ!」
聞き取れたのかどうか、流されていた阿戯は、運よく川中の水面に顔を出している大岩に捕まることが出来た。
崔衡の上着が、ずっと先の川下の水面をひらひらと泳いでいく。
―――― 阿戯の位置は、岸から二丈(約4.6m)もないか。
広元の目測。距離的にはそれほどでもない。だが子供の力では、しがみ付いていられるのも時間の問題だ。
崔衡は流れに喘ぎながら、ほんの少しずつ、阿戯の方へ向かっている。
いや……向かおうとしているのだが、距離はなかなか縮まらない。
「州平!」
叫ぶ広元の脳裏に寸瞬、残酷な考えが過ぎる。
『州平を止めるべきだ』
脱ぐ間もなかった衣服が水を吸い、崔衡を水底に引き摺り込もうとしていた。これでは、下手をすればふたりとも流されてしまう。
どうすれば……。
―――― そうだ、綱!
車輪が溝に嵌るなど、不慮事態への対応に常載しているものが、今日使用の車にも備えてあったのを思い出す。
広元は家僮に声を張り上げた。
「車に綱があったろう!」
興奮している弟を離せないでいる広元は命じた。
「すぐ持って来てくれ!」
そう命じた直後だ。広元の耳に、左手の川上側にある浮橋辺りで、何かの塊が水に落ちたような、別の大きめな水音がした。
「―― !?」
何の音か?
事態把握の出来ぬ広元達の目前で、大きな変化が起きた。
阿戯が、もがきながらも誰かに抱えられ、岸に向かって運ばれてきているではないか。
―――― まさか、誰か橋から飛び込んだ!?
この水流で、人を水難から救えるほどの泳ぎが出来るとは並大抵でない。しかも真冬でないにしてもすでに仲秋、水温も相当に低いはずだ。
「広元様! 綱です!」
走ってきた家僮が、指示されたものを広元に手渡す。
「州平、捕まれ!」
広元が投げた綱を片手に巻き付けた崔衡が、阿戯を迎える方向に向かう。
やがて合流した大人二名と抱えられた子ども一名が、広元と家僮の引く縄を伝い、岸に這い上がった。
ずぶ濡れ姿の崔衡は阿戯を抱きかかえ、岸から上がった平地に運ぶ。
幸い阿戯は微弱ながら息をしていた。崔衡は阿戯をうつ伏せにし、背を叩いて水を吐かせる。
「しっかりしろ、阿戯! 息だ! 息をしろ!」
阿戯は激しくむせながら水を吐いた。
家僮が阿戯の体を乾いた布で急ぎ包むも、阿戯の顔面は蒼白、唇は濁った紫色と化し、全身をガタガタ震わせている。
広元は阿戯の濡れた服を脱がせて身体を拭き、自身の脱いだ袍(上着)で、小さな身体を隙間なく包んだ。
「早く温めねば。きみもだ、州平。阿戯を連れて早く邸に戻れ」
崔衡を急かした広元は、別の乾布と、防寒の予備として車に積んでいた袍を手にすると、もうひとりの当事者、阿戯を救って岸に上がっていた恩人にかけ寄った。
犢鼻褌(ふんどし)一枚だけになっているその者は、一見したところ広元と同世代、比較的骨格のいい長躯な男である。
片膝を付き、下向きに咳き込みながら肩で息をしている彼に、広元が乾布と袍を掛ける。
「大事はありませんか!? どこかお怪我は」
裸の青年は体を拭きつつ答える。
「ああ、平気だ。存外軽い童子で助かった。無事か?」
「ええ、大丈夫かと。本当にありがとうございます。まさか川に飛び込んでくださるとは」
青年はもう数度咳をし、ふうーっ、と大息を吐くと、
「はは、そりゃまあ目の前で起きちゃな。こちらも久々の襄陽でいきなりこれは、まさかだったよ」
ひと笑いして額を上げる。
と、その顔を正面から見とめた広元が喫驚声をあげた。
「!! ちょ……趙䰟《ちょうこん》?!」
相手も広元に目を見開く。
「なんだ、広元じゃないか。これは奇遇だな。久しぶり」
青年はまだ整わない呼吸に喘ぎながらも、明るい声を返す。
「趙䰟、きみ……いつ襄陽に?」
子どもを救ったその者は、広元が昨年襄陽で知り合い、数度会ったことがある男である。
友人といえば友人だが、放浪癖があるとかで、ここ半年以上顔を見ていなかった。
趙䰟は広元から受け取った布に髪の水気を吸わせながら、
「その話は後にして、今は暖だ。これでは凍え死ぬ」
「あ! そ、そうか、すまん」
ふたりが話すそこへ、阿戯を家僮に託した崔衡が歩み来た。
ずぶ濡れ同士である恩人に、崔衡は深々と礼を施す。
「従子の命をお救いいただき、感謝の言葉も見つかりません。御礼はのちほどきちんといたしたく存じますが……陋居がすぐそこです。暖と着替えを用意させますので、まずは取り急ぎご一緒に」
「お、それはありがたい」
くしゃみをする趙䰟と、崔衡と童子二名を乗せた箱馬車が、崔家邸へと急ぎ走って行く。
広元は『咄嗟に飛び込んだ浮橋上に置いてきた』という、趙䰟の馬と衣類の回収を受け持った。
置き去りにされた趙䰟の馬は、不安定な足場と水に怯えていたのだろう、浮橋上におとなしく、というより、前に進むことも出来ずに立ちすくんでいた。
「よしよし、もう大丈夫だ。それにしても気概ある男だな、お前の主人は。驚いたよ」
広元は優しく鬣を撫で、脱ぎ捨てられた趙䰟の衣類や荷物類を拾い集める。
馬を宥め引いて橋を渡らせきると、その馬の背に乗って、先に行った箱馬車を追いかけた。
<次回〜 「第80話 放浪癖の自由人」>




