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第78話 諦観(ていかん)の水面(みなも)

阿戯あぎ! それ以上川面に近寄ってはいかんぞ。弟も側から離すなよ」


 八歳になる従甥いとこおいの背に、崔衡が注意を促す。


「はい、州平兄様」


 首を回し返事をした阿戯は、二歳下の弟の手を取り、川岸からやや距離をとった場所を陣取ると、兄弟仲良く水面への石投げ競いを始めた。


 厳しかった蒸し暑い夏もやっと過ぎ、仲秋・八月に入った。あの猛暑が嘘のように、朝晩の気温は一気に冷え込んできている。


 それでも陽射しのある日中は、爽やかな暖かさを感じる季節であった。


「元気な盛りだな。聞きわけも良くていい子達だ」


 低岩を座に腰をおろしている広元が、のどやかに話す。

 崔衡は立ち姿勢で腰に両手を当て、嘆息した。


「聞きわけなんていいものか。阿戯は悪戯いたずらばかりしてまったく落ち着きがない。手に負えなくなると、義従姉あねいとこはわたしに子守を押し付ける」


 珍しく不機嫌そうな崔衡の言に、広元は軽く噴いてしまった。

 確かに、元来人が不得手な崔衡と子守は結びつかない。


 阿戯とは幼名、いわゆる愛称だ。

 『戯』は、ふざける、たわむれる、という意。きっとあの子の普段はその名を態しているのだろう、と広元は想像する。


 この日久々の丸一日休みをとった広元は、崔衡の子守に付き合っていた。


 彼ら一行が来ているのは、互いの家前を流れる檀渓水の河原、両宅からもさして離れていない、川上側に対岸とを結ぶ浮橋が見える辺り。

 簡素な箱馬車の馭者を兼ねた崔家の家人が、子ども達の近くで、平和な様子を見守っている。


 彼らを見遣りつつ広元の横に坐った崔衡は、片立て膝に肘を乗せ、もう一方の手で足下の小石を手に取る。


「ともあれ、叔父一家には世話になっているし……あの家で一番《《暇な》》男は、わたしだからな」


 嗤笑ししょう気味な独特の語調は、崔衡がよく表すものだ。


「州平の叔父君と従兄君は、南郡の文官を勤めているんだったな」

「ああ。上計掾じょうけいえん(郡の統計管理長)の属吏(部下)だから、さほどの地位じゃないが」

「そんなことないだろう。上計は郡の主要な曹(部署)だぞ」


 崔衡の父である亡き当主・崔烈さいれつの買官失態で、名声を落とした崔氏の現状。

 とはいえ、一度は王朝最高位の位まで上り詰めた家系である。過去の威名とは比較にならぬにせよ、官吏としてそこは根強い。


「銭管理が好きな一族と思われているんだろう」


 手元の小石をいじりながら、崔衡が低くわらう。


「よくないぞ、そういう言い方」


 広元が指摘した。崔衡はときおり、こういう斜に構えた表現をする。その場の冗談であろうが……いや、半ばは本心か。


「州平は、仕官を考えていないのか?」


 広元よりひとつ年長の崔衡は、未だに書生とあるだけで正職に就いていない。

 たまに、自身の従兄の仕事補佐を勤めていることは広元も承知しているものの、その役職の見習いという形でもなさそうに見える。


 ―――― 州平がその気になれば、仕官の道は充分にあるはずなんだがな。


 崔衡が、生まれに増して、実はかなりの才智者であることを広元は知っている。崔衡の人付き合いが悪過ぎるために、皆、気付いていないだけだ。


 特に崔衡の鑑識眼には、広元もしばしば驚かされていた。喋りが少ない者は、人より周囲がよく視えるのかもしれない。


 広元の問いには答えずに、崔衡はしばらく空に浮く雲を眺めた。


『仕官』という単語から、勤勉で志も熱く西河太守だった兄、崔鈞さいきんのことを想い出す。


 ―――― 官吏……このわたしが……?


 ばかばかしい。

 崔衡は急に可笑しさがこみ上げ、知らず失笑した。


「? 何が可笑しい」


 真面目に振った心算つもりであった広元が、怪訝声を出す。


「あ……いや、すまん。こっちの話だ」


 詫びながら、崔衡は微笑で返した。

 石広元、この誠実気質の友人に、世にねた己の様な者の本音など、吐くわけにはいかない。


「人のことより、そういう広元きみはどうなんだ」


 さらりと話題をすり替える。


「子玖から聞いてるぞ。父君からの仕官話ずっと保留にしてると」

「……」


 今度は広元が黙った。

 自ら振ってしまった話題にきまりの悪そうな広元に、崔衡が静かに説く。


「筆耕仕事がよくないなんてことは別に思ってないが……正直、民間職より官吏の方が、きみには合っていると思うがな」

「……」

「漢への仕官は、気に染まんか」

「……そうじゃない」

「なら、問題は劉牧か」


 直球指摘にぎくりとし、広元は崔衡の顔をまじまじと見た。



 荊州牧(長官)・劉表は、若い頃から中央で名の知れていた、名実ともにこの戦乱世きっての実力者である。


 劉表が朝廷からの正式任命で荊州の牧に初着任したのは、九年前の初平元(西暦190)年。

 当時の荊州は、他の地同様、酷く荒れていた。


 そこで劉表は、荊州土着の有力豪族二名の謀策を用いて、思い切った作戦に出る。

 強大勢力で荊州を牛耳っていた宗賊首魁(しゅかい)を騙しあつめ、一堂に揃った五十五人を、一掃 ―― まとめて鏖殺おうさつ(皆殺し)したのだ。


「やり方は明らかに騙し討ちだったからな。恨みも買うし、非難がまったく無いというわけでもなかろうが」


 崔衡は淡々と評する。


「しかし葬ったのは朝廷不服従の宗賊。中央からすれば黄巾退治と同じで、大勲章ってとこだ」

「……そう。それで荊州の安定が進んだんだから、あれは正しい策だった」


 劉表の大胆果敢な決断と行動。彼は決して軟弱優柔不断な将帥ではないと、広元も以前はとらえていた。


 それが……。


 ―――― 最近の劉牧は、なんだか変だ。


 かつての英雄もどうしたことか、このところ、いやに歯切れの悪い印象が拭えない。

 義父も実父も揃って劉表の部下である身の広元は、軽はずみなことを口に出せないが……。


 そんな広元の心底を崔衡が拾う。


はかりごとを好む割に、大事場面での決断力には欠けるからな、そのくせ昨今じゃあ、劉牧は天子気取りで郊祀こうし(天地を祀る儀式)まで行なっているという有様らしいぞ」

「朝貢(朝廷への貢ぎ物)を止めたというのは、本当なのか?」

「今、朝廷実権を握ってるのは曹操だからな、やってられんという気持ちはわかるが。……ふふん。中立を囲っているようでも、ひとかどの野心はあるとみえる。袁術とは違うと、どこまで通せるか」


 身内の関係からか、崔衡には一般人よりは内部の情報が入るようだ。


 友の見解補佐を受けて、広元は心持ちを若干軽くしつつも苦言する。


「よく知っているんだな、州平は。まあ明快なのはきみらしいけど、話す場所には少し気を付けろよ」


 官吏家族を持つという立場としては崔衡も広元と同様だというのに、この手の話題についての崔衡の弁舌には、遠慮というものがない。


「はは、『石に耳あり』か。そうだな、だから《《うっかり》》が出ないよう、塾ではいつも黙ってるのさ」


 塾先では愛想の無い崔衡も、広元の前ではたまに笑ったりする。

 言い回しが多く辛辣な点は玉にきずにしろ、意地の悪さはなかった。


 ―――― そこは、珖明と通じるのかもな。

 

 必要な情報を的確にとらえる能力に長ける崔衡は、広元が基本的に伏せている広元かれ自身の生まれについても、おそらく周知しているだろう。そう、広元は思っている。


 且つそのことが、広元の仕官選択を躊躇させていることも。それを承知の上で、崔衡は仕官を薦めているのだろうか。


「州平、仕官は――」

「ま、いいさ。そう結論を急がずとも。もう少し考えてからでも遅くないだろう」


 広元の返答を遮るように、崔衡は継ぐ。


「人はいずれ、収まるところに収まるものだからな」

「……」


 広元の気をほぐすつもりか、それとも話題が面倒になったのか、崔衡は大きく伸びをした。

 つられ広元も気色を緩め、その話を打ち切る。


 崔衡との会話は、往々にしてこの調子だった。

 まだ若いというのに、崔衡という男、心に熱を持たぬというか……根本的に諦視ていし姿勢である。


 いつぞやの列肆れっし主人との件のような、理不尽な揶揄いにも度々遭遇していながら、崔衡は毎度、まったく素通りしていた。

 広元相手には、さきほどの『銭勘定』といった自虐言を用いて、ささやかな抵抗を覗かせたりすることはあるものの、それ以上のざわつく姿を、一度も見せたことがない。


 『若くして達観している』と評すのは、簡単だろうが。


 ―――― この男……下手すれば、隠者にでもなりかねないな。


 親しく付き合うようになってから、広元はそう感じることがある。

 感情の解りにくいところは珖明も同じなのだが、崔衡と珖明は似ているようで、何かが違う気がした。

 珖明はああ見えて、少なくとも隠者のふうが無い。


「そう言えば今日、珖明は留守番なのか?」


 広元がちょうど比較に思い描いていた名を、崔衡が口にした。


「いや、早朝から出掛けたようだったな。夕刻には戻ると……」


 言いかけたときだ。


「きゃあああーーっ!!」


 長閑のどかさをつん裂く甲高い悲鳴が辺りに響き渡り、広元と崔衡のふたりは、弾かれたように立ち上がった。



<次回 第79話「水難」>

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