第77話 銅臭
怪我の癒えた崔衡が久々訪れた塾堂に入ると、聴講席はこれから始まる師の講義を待ち構える門生達で、ほぼ埋まっていた。
「呂布が遂に、下邳で曹操に斬られたな」
「いくら勇猛でも、あちこち主を変えた不信義者の末路だ」
「袁術もいよいよ危ないぞ」
「袁紹と曹操の大戦が、とうとう始まるらしい」
門生達は、それぞれ近場の者と時事を語っている。
―――― あの呂布が曹操にね……。相変わらず談義に事欠かないな、ここは。
雑多に飛び交う会話の要点だけをとらえつつ、崔衡は室全体を見回す。
やがて中ほど列の右端に坐す、読書をしているらしき丈高の後ろ姿に目を留めた。
―――― ……いたか。
珖明だ。
左隣が空いている。皆、その近寄り難い空気に遠慮をしているのだろうか。
崔衡は歩を進め、空いたその席に無言で坐った。
隣の珖明がわずかに首を傾けて崔衡を見、また戻す。その顔に不快感が現れていないことを認め、崔衡は胸内で小さく安堵の息を吐いた。
「足は癒えたか」
視線は机上のままの珖明がぽつり、問う。
崔衡は平静さを保って応じた。
「ああ。杖付きにはならずに済んだよ」
礼を言わねばと思っていたくせに、あまり素直な言い方になっていないのは、この男の癖だ。
崔衡は一度軽く咳払いをし、尋ね返した。
「今日はひとりなのか?」
口にした直後に崔衡は気付く。
珖明とたいてい一緒にいる広元の姿がない。この席はもしや、広元のための座であったか。
急に焦り気を覚えた様子の崔衡に、珖明が淡白に返した。
「急ぎの仕事で、今日ここへは来れぬそうだ」
「……そうか」
それからふたりは、周囲のような時事談をする事もなく、それぞれ几案上の書物に向かった。
外から見れば気まずい空気に映るかも知れないが、寡黙同士というのは、実際それで場が成り立つ。
しばらくして、ひとりの高弟の上声が、最前方から響いた。
「皆様方。水郷先生がお見えです」
とたん堂内の人声はぴたりと止み、慌ただしい衣擦れと、竹簡を開くカチャカチャという音が鳴り響く。
小さな咳でも睨まれる静寂の中、講義が始まった。
◇◇◇
「なんと、州平と珖明が連れ立ってるとは思わなかったな」
室から崔衡と珖明とが出て来た姿を、塾堂を出た場所で広元の明るい声が出迎える。
広元は、だいぶん遅れてではあったものの講義に参加していたという。
「並んだきみらの背は後席から見えていたんだけど、偶々《たまたま》隣り合わせたくらいにしか思ってなかったんだよ」
崔衡が、一応説明すべきかと口を開く。
「珖明どのには先日たまたま、その……ちょっと世話になったから」
「へえ、珖明が!」
目を丸くする広元。
「そうだったのか。それは良かった」
「……」
崔衡には理由がわからないのだが、広元はなんとなく楽しそうだ。
「ところで州平。この後は急ぐか?」
広元が、いつもの柔らかい気色で崔衡に尋ねる。
極端に寡黙な崔衡からすれば、周囲と気負いなく会話交流の出来る広元は、弁が立つ方に分類される男だ。
「……いや、特に予定はないが」
崔衡は小さく、けれど正直に答えた。
広元と崔衡とは既知な間柄なものの、会話はそれほどしたことが無い。
ただ広元が他の多くの者と違って、当初から崔衡を特段視しない態で接してきている印象を、崔衡は持っている。
「なら州平、すまないが少しだけ城内まで付き合ってくれないか。仕事の上がりを届ける先がある。それは直ぐに済むから、道々話そう」
「……」
まったくの自然体で話す広元に、崔衡は拒否する理由が浮かばない。
隣には、やはり平穏な面の珖明。
こういう場面に慣れていない崔衡は、面倒さと、同時に湧くささやかな嬉しさとに多少戸惑いながらも、頷いた。
◇◇◇
広元の寄り先は、市中の豪商列肆(店舗)のひとつであった。
荊州の有力豪族、張氏一族の者が商っていて、ここの主人は品売買以外にも、金貸として羽振りを効かせている人物として有名だ。
「これは、石広元どの」
納品を終えた広元が列肆から出て来ると、出先帰りか、戻った列肆主人、張湯と鉢合わせた。
広元は丁寧に拱手(中国式挨拶)をする。
「張様。今、ご依頼品をお届けしたところです」
「お早い対応、さすがですな」
拱手を返しながら、張湯の目線がちらと、広元の後ろにいるふたりに投げられた。
「おや、そちらは」
声は崔衡に向けられている。
「これはお珍しい、崔家のご子息どのですか」
主人の口元が微妙に歪んだ。
張湯の次の口上が何か、崔衡は予想出来た。やはりついて来るのではなかったなと、いまさらながらに思う。
にやつきを含めた面の張湯は、指で小鼻あたりを摩った。
「先ほどからこの辺り、何か特有の……銅ですかな、臭いがしていたのですが。なるほど」
得心したように顎を引く仕草。意味は明白だ。崔衡を蔑んでいる。
その態に眉間を険しくしたのは、崔衡でなく広元であった。
張湯に対し半歩乗り出してまさに反言しようとしたとき、広元の肩を崔衡が掴んだ。
「!?」
振り返った広元に、崔衡はなんらの怒気も浮かべていない面様のまま、首を小さく左右に振る。
『いいんだ、止せ』
目色はそう言っている。
「……」
広元が上げかけた肩を下げ、少しく昂らせてしまった感情をおさめてすぐだ。
「銅臭ですか。さすがご主人は、ずいぶんと嗅覚に優れておいでのようだ。人は好物のにおいに真っ先に鼻が効きくものですが」
初夏の涼風のごとき、澄ました声。
広元と崔衡は同時に声主 ―― 珖明に顔を当てた。ふたりとも瞠目している。
それを一寸見もせずに珖明は続けた。
「こちらの列肆近くに来てから、何か独特臭を覚えたのですが……そう言えばこちらは、確か銭貸しもされていましたか。日々山ほどの銅銭を数えてらっしゃるのでしょうし、大切な商売道具、人一倍銅銭の臭いにも敏感になって当然ですね。仕事熱心なご証拠です、素晴らしい」
一気に語り、この上なく端麗な貌をにこりと笑ませる。
広元も崔衡も、呆気に取られて何も言えない。
珖明の話す口振りは優しいが、内容は相当辛辣だ。
加え珖明は、強烈な駄目押しで締め括った。
「わたしもご主人に習い、身が臭うほどそれらに囲まれたいものです」
眩しい玉貌を当てられて面喰らった体でいた張湯は、即後、あからさまな不快顔に変えた。
己が金貸し稼業で世間によく思われていないことくらい、さすがに自覚しているのだ。
豪商の反応を意に返す風もなく、珖明は友ふたりに目を移す。
「広元、州平、失礼しよう。ではご主人、ごきげんよう」
冷涼な声音を残すと、くるりと踵を返して、城門方向へとさっさと歩み行ってしまった。
「あ……!? お、おい」
広元達は慌てて主人に軽い拱手を済ませると、珖明を追いかけた。
◇◇◇
「珖明。気遣ってくれたのかも知れないが」
列肆からだいぶん離れた場所まで来たところで、珖明の背に崔衡がやっと声を発した。
崔衡の持ち声は独特で、低いが重くなく、人の耳に常、心地良い響を残す声質をしている。
その美声を、ここではいくぶんの憂慮色に沈ませていた。
「その……まずかったのではないか? 得意先を不快にさせて」
「得意先?」
歩を止めた珖明が振り返り、崔衡の隣の広元に訊く。
「あの男から次も請け負いたかったか、広元?」
「……いや」
広元は、言いにくそうに苦笑した。頰あたりを指先で掻きつつ、崔衡に言う。
「趙どのは、友人紹介で引き受けた依頼主だったんだが……実は最近、内容が何とも如何わしくてね。引き受けた以上、出来る対応はしてきたけど……次は正直、断りたいと思っていた相手なんだ」
そして深々と謝する。
「でもそれはこちら事情だ。主人がまさか、ああ出るとは予想していなかった。付き合わせて不快な思いをさせてしまった。本当にすまない」
「……」
崔衡は反応に窮した。
自分に対し、うわべでなく人から頭を下げられたのは、襄陽に来て ―― もしかしたらそれ以前も含め ―― 初めてだったのだ。
「いや、何も。気にせずでよいから」
つい反射の言葉で返す。
まがりなりにも高官家柄に生まれついた崔衡、そんなつもりはなくも、とっさ出る口調に、上から感が出てしまっていた。
それが不慣れ故からだろうことを理解しているのか、広元は包み込むような温かい眸を向けた。
「そうか、ありがとう。では一緒に帰ろう。良ければともに夕食をとらないか?」
帰路道々の崔衡は、彼にしては珍しく口数多く語った。このふたりとは不思議と話しやすい。
その日の交流で崔衡は、広元の居宅も崔家邸と同じく、荊州城壁から檀渓水を渡った対岸にあると知った。しかも存外に近い。
珖明が肩を貸し送ってくれたのはそれ故だったのだな、と合点がいった。珖明は以前から崔衡の邸場所を知っていたのだろうし、広元もであろう。
言いかえれば、崔衡自身がいかに周囲への関心がなかったかという証だ。
―――― 〝 友 〟……か。
夜、牀台に横になった崔衡は独り言つ。
己には無縁だと永らく諦めていたもの……けれど、もしかしたら我にもひとりやふたり、友がいてもいいのかも知れない。
枕辺に遠く水流の響きを聞きながら、崔衡は物心ついた齢となって以来初めて、そんなふうに思った。
<次回〜 第78話「諦観の水面」>




