第76話 苦肉の新生活
宛から戻り、諸葛遺児二名の安息場を取り敢えず確保し終えたときの広元には、息つく間も無く次の難題が持ち上がった。
珖明の扱いだ。
『男として生きる』
しかも、真の性を隠して。
―――― 隠遁者でもあるまいに……。
十代の若者が、そんな生き方をする意図は何なのか。珖明の心情については、広元とて不可解極まりないのが本音だった。
そんな意味不明さを追求もせず受容できる世人が、いったいどれほどいるだろう……?
しかし。
あの透き通る曙光の中で、『秘を約す』と誓った広元である。
江東の旅からの帰着後、彼は次の対応を懸命に深慮した。
このまま石家にいては、どれほど工夫したとて、遠からず守秘に限界が来よう。
かといって、珖明に今すぐの独り立ち生活をさせるには無理があり過ぎる。
ならば……。
―――― 珖明を連れ本家を出て、周囲をやり過ごしつつ当面は同居する。
出したギリギリの決断。
珖明もそれを了承した。実のところ、広元がこの時宜に本家を出た所以は、男児誕生の件よりも、こちらの方が大きかったかも知れない。
なんとかことを穏便に運び、現状は落ち着いていた。
……ただ。
広元はごく偶に思うのだ。
―――― 我はどうして、こんな事をしているのだろう?
自らの選択行為でありながら、曖昧な己の思惟。
思い及ぶその度に、苦笑する広元ではある。
……
「兄は宛にいた時分から、際立って書物好きでしたから。広元先生に私塾へと誘われたのは、願ってもない場を得られた感なのでしょうね」
「……だといいけど。まあ確かに四六時中几案と向き合っても、まったく飽きないみたいだな」
「子瑜兄様(諸葛瑾)もそうでしたね。同じ血胤なのに、ぼくはどうやら、それを継げなかったようです」
面目無さそうに、子玖は後頭部を掻く。
広元は微笑んだ。勉学に対し、子玖もそれなりの真面目さで取り組んでいるのは広元も知っている。
面識のない諸葛瑾については想像範囲にせよ、上のふたりが別格すぎるのだろう。
「珖明は特別だよ。わたしだって歳上なのに、まったくかなわない」
子玖を慰めるというより、それは事実。
「珖明は筆も相当上手だ。わたしの仕事を裏で手伝ってくれて、とても助かってる」
広元は独居後、民間仕事に携わって生計を立てている。
「へえ……兄上が先生のお仕事の助手をしているなんて、なんだか不思議な気がします。でも、本当に良かった」
子玖の眸が、これまでをしみじみと憶い返している。
宛の乱で、親代わりの叔父、諸葛玄を亡くした子玖。
実母の章氏は未だ消息不明のままだ。誰も口にしないが、彼女は賊に攫われたか……あるいは殺されたかした可能性が高い。
それは昨今で起きている、ありふれた悲劇かもしれない。だが当事者にとって、心を引き裂くつらさに変わりはないはずだ。
それでも、幼くして父を亡くし戦火に追われ、果てしない逃避行の中で、失命すれすれの辛苦を舐めてきた子玖にとって、今の襄陽での平穏な生活は、夢のような賜り物であった。
その子玖に、襄陽に着いてからひとつ朗報があった。
もうひとりの行方不明者であったすぐ上の姉が、荊州へ嫁いでいた長姉の許へと無事たどり着けていたことが、広元の調べで確認できたのだ。
子玖からすれば、広元は師などを越えた大恩人でしかない。子玖は生涯、広元に感謝し続けるだろう。
「先生、旦那様が『話があるから近々来て欲しい』と仰っておられました」
「……そう」
急にずいぶんと気乗り浅げな、広元の反応。
義父の話の内容なら察しがついていた。
南郡への仕官推挙。今のような民間職に付いている必要はないと、義父は前々より広元に対し口にしている。
『独立』などと偉そうなことを言ったところで、書生身分の広元、ましてや友を抱えてまでの生活力はないから、初頭は当然ながら、石家からの全面援助で始まった。
独居を考え始めた時分から自立活路を探していた広元は、やがてある伝手を経て、筆耕(代筆)仕事を手掛けるようになった。
筆耕とは、手紙や文書を依頼人に成り代わって代筆する職だ。
教育制度が普及した漢の世では、一定以上身分者の識字率は低くはない。
しかし美しい文字や名文章となると難関であり、また見栄張りの高官吏や富豪ほど、そこにこだわる。
そこで成り立っているのが筆耕職。月旦とまではいわずとも、ひとつの流行になっていると言ってよい。
広元は書字も文作も上手な方であったから、仕事は想定以上に順調に進んだ。
中には女文の依頼もある。意外にもそれに対応出来るのが珖明だった。
珖明の筆はしなやかで美しい。女子文章作りも、広元が面食らうほどの腕前なのである。
―――― なんとも、皮肉感はあったけど。
当初覚えた感覚にも、もう慣れてきている。
珖明の名は、本人の希望で表に出していないものの、ふたりの実力は襄陽の狭い地域ながら評判となり、次第に本家からの経済的な援助を必要としないまでになっていた。
とはいえ、所詮は民間職。その格は低く、官吏の義父からすれば、捨て置けぬのも無理はない。
―――― 荊州に出仕……。
荊州の現行最高責任者は、荊州牧(州長官)・劉表。
劉表は漢王朝から正式任命された官であるから、広元が薦められているのは、漢王朝への出仕である。
ただし昨今、王朝と地方との正規な縦構造は甚だ怪しくなっていた。
広元の場合、実質は『劉表の臣下になる』ととらえるべきなのだ。
―――― 当然、実父が絡んでいる。
本来、特に地方においては、名門家系でもない限り、官吏になどそう易々となれるものではない。
移住の学者である石の義父は、人望はあれど、身分としてそれほど高い地位にいるわけではなかった。義父自身に広元を官吏に就かせる力など、ありはしないのだ。
にもかかわらず義父がそう願う根拠は、広元の元々の血胤にあった。
石の家族以外には、ほとんど伏せられている事実 ―― 広元の実父は、劉表の信頼も厚い直属の将軍なのである。
将軍家の庶子(妾の子)として生まれた広元は、幼少期に複雑な立ち位置に追いやられ、実父と懇意にしていた血縁外の石家へ、義子として出された身だった。
広元からすれば、不遇ととらえても不思議はない。
だが実父にもそれなりの事情があったことを、広元は幼い当時から理解していた。
まして成長した今、実父との間に大きな溝が残っているわけでもない。
荊州は本来の生まれ地でもあり、尽くすことにも迷いはなかった。
周瑜からの誘いを断った訳合でもある。
……だが。
―――― 劉表を主人に……。
広元はいまひとつ、踏み切れぬ感がある。
あの宛の一大事にも、最後まで動かなかった劉表。
宛を支配していた張繍の二重裏切り策略により、宛は曹操の侵略を阻止できた。
荊州とすれば良結を得たことになる。
なれど、張繍の策を劉表が見越していたとは考え難い。張繍が劉表のためにした行動とも思えず、劉表は単に幸運であっただけとも取れる。
―――― 張繍は無気味だ。あのときは敗れた曹操も、荊州をまったく諦めていない。
実際、宛の戦い以後も曹操はしつこいほど南陽郡を襲ってきており、その度に、さすがに支援をするようになった劉表と組み、張繍が戦っていた。
今のところはかろうじて、決定的侵入を阻んでいるのだが……。
―――― この先、劉表に果たして荊州が守り切れるのだろうか?
「……先生?」
子玖が広元を覗き込んでいる。
「! あ、すまない」
無意識に己の思考に固まるのは、広元の癖だ。
「そうだな、今の仕事を片づけたら……五、六日中には伺うと父に伝えてくれ。坊の顔も見たいしね」
広元の返答に子玖は満面の笑みをたたえ、帰って行った。
<次回〜 第77話「銅臭」>




