第75話 石家の事情
「広元先生、本家からのお届け物は、こちらに置いていいでしょうか」
室家戸口内のひと隅に荷を降ろした、子玖の声。
「ありがとう、重いのにすまなかったね。荷物は下男に頼めば良かったのに」
広元は現在、両親の住む石家宅から独居し、襄陽城壁外に小さな宅を構えている。
「ぼくから行かせて欲しいとお願いしたんです。先生にお会いしたかったので」
広元の独立後も石の本家に住んでいる子玖は、本家の所用をこまごま手伝いながら、家族同様に生活していた。
広元宅の場所は、城壁外といっても本家とそれほど離れておらず、互いの行き来は多い。この日は広元を気遣う両親からの差し入れを、子玖が届けたのだ。
「ところで子玖、その……『先生』というのは、もうやめてくれないかな。きみの師とえるようなことは、とっくにしてないのだから」
毎度になるやり取りを、広元は照れを含んだ困り顔をして願う。
荷解き作業をしながらの子玖が、持ち前の、河北人には珍しい丸い目を山なりに細めた。
「ぼくにとって先生は先生です。いままでもこれからも」
子玖の外見には、成長初期らしい変化が現れている。
背丈は少なからず伸び、幼かった身体つきにも、男子らしい逞しさが加わり始めていた。
それでも、会う人をほっとさせる温かな気質は変わらない。
「子玖が両親と一緒に住んでいてくれて、感謝してるんだ。わたしと珖明が、江東の長旅でずいぶん留守にしたうえに、戻って早々、今度は邸から出てしまって……申し訳なかった」
諸葛のふたりがまだ襄陽に来てそれほど経っていない時期に、広元は珖明を伴い、子玖を残して江東への旅に出た。
当時の子玖と石両親の様子から、安心だとの判断を持って出発したとはいえ、いざ挑んだ旅次は、大幅な予定超えの長期間となってしまった。
冬の帰路で襄陽に近づくにつれ、広元は帰って来た嬉しさと同時に、子玖と家の関係がどうなっているだろうかと、落ち着かない気持ちになったものだ。
ところが、帰着してみると。
石の父は子玖に熱心な学問指導まで行っており、母も子玖をすっかり気に入って、良好な関係が築かれていた。
広元の危惧は、取り越し苦労だったようだ。
「先生に命を救っていただいて、石家の皆様にもお世話になるばかり。ご恩は将来、必ずお返しいたします」
子玖の話しぶりも、しっかりと大人っぽさを帯びている。
「石の旦那様、先生の生活に無理はないかと気にかけておられました。一緒に住めばいいものをと、とき折こぼされます」
「……うん」
国が儒教価値観を主軸とするようになってから、家族は普通、たとえば婚姻した兄弟であっても分家はせずに、ひとつ敷地に同居するのが常。広い宅地を持つ有力豪族ともなれば、数世代が住まっている。
石家がそれほど上層家でないにしても、未婚の広元が別宅を構える必要はないだろう。
それでも本家を出たのは、石家の事情変化がきっかけであった。
◇◇◇
「おめでとうございます、義父上。母子ともにご無事、しかも男児とは」
広元と珖明が長い江東旅から戻って間も無くのこと。
中年に差し掛かろうという石の父に、男児が誕生した。妾腹であるとはいえ、念願の直系子息だ。
「うむ。早産であったから気を揉んだが……まあ、なんとか生まれてくれて良かったものよ」
孫持ちと言ってよい年齢となってからの我が子の誕生に、さすがに面映ゆそうにする義父。
その様子を、広元は微笑ましく見る。
「家族が増えるのは何より嬉しいことです。亡き義兄上も、きっと喜ばれておいででしょう」
石家に男児が生まれたのは、実は此度が二人目だった。
最初の嫡男(正室の子)は、広元が石家に来る数年前に幼くして死去していたため、広元は会ったことがない。
広元の言う『亡き義兄』とはその嫡男ではなく、石家夫妻が同宗族から迎え入れた、嗣子(家を継ぐ正規の養子)のことである。
正室に子ができない場合、この国に古くからある〈異姓不養(異姓から養子を迎えてはならない)〉の原則により、同宗族から養子を迎えるのが一般的だ。
広元より二歳年長だった嗣子たる義兄と、広元は穎川で一緒に育った。
気の合う義兄であったが、義兄はあまり丈夫でなく、穎川からの脱出旅路が負担だったのだろう、襄陽に移住して間も無く、夭逝(若死)してしまった。
つまり石家はこれまで、家督を継ぐべき息子をふたりも、続けて亡くしてきたのだ。
―――― 此度の誕生を、義父上はどれだけ喜んでおられるか。
真心から、広元は祝す。
まだ赤児とはいえ、幸いにもすくすくと育っていく様子に、子を喪ってきた石家両親も頬を温かく緩ませる。
そうして……家族が落ち着いた頃合いを見計らい、広元は本家から住まいを独居させる希望を、両親に初めて申し出た。
「わたしも今年成人(二十歳)を迎えました。これからの人生を己の足でどう生きるか、具体的に取り組まねばならないと考えております」
正しい言い分。ただし、広元の胸裏にある真の理由は、そこではなかった。
何かの圧力を感じたわけではない。あくまで広元ひとりの遠慮 ―― 義子でありながら実質的な息子と同然になっている己の存在が、石家の将来にとって、万にひとつも懸念材料になってはならないと考えたからである。
血胤外の広元が石家を継ぐことはないはず……しかしながら、必ずしもそうではない世相がある。
異姓不養は、儒教重視による治世時の概念ともいえるものなのだ。
これだけ人命が簡単に消え、血脈断絶が珍しくもない時世。儒教理念の薄まりといった要因も重なって、現実的に規律は緩くなっている。
家督継続のため、経済的理由のため、あるいは……人の感情優先のため。
時流変化の中で、血縁に頼らない事例は必ずしも珍しくない、という事実があった。
―――― 庶子(妾の子)でも石の血を引く唯一の男子。我の立場は、はっきり形にすべきだ。
広元の考え過ぎかもしれない。なれど、人につきまとう《《情》》が、ときに手に負えぬ厄介成分ともなり得ることを、広元は自身の生い立ちで経験している。
「起居宅を違えるというだけで、石家に尽くす気持ちは微塵も変わりません。生まれた赤児のことは、義兄として、必ずお守りいたします」
敬愛と感謝を込め、また誰にも勝る己の理解者である育て父に、広元は誓った。
生まれたばかりの子息、成人までの道のりは長い。支える広元の責務は重いだろう。
「そうか……」
終始、静かな面持ちで黙って聞いていた義父は、最後にひとことだけ呟いた。
「わかった。おまえの考えるままにするがよい」
その胸裏には、広元の本意図が見えていたのかもしれない。
◇◇◇
「先生、一昨日、坊が初めて歩いたんですよ」
室に上がり床に腰をおろした子玖の報告に、広元は明るい額をあげた。
「そうか! それは嬉しい知らせだな。生まれたときかなり小さな赤児だったから、心配していたんだ」
「ええ。旦那様も奥様もみな大喜びで」
子玖は赤児の面倒をよくみている。
末弟であった子玖自身、弟的存在が出来たことが、嬉しい環境となっているようであった。
―――― 子玖がいてくれて、本当に良かった。
思いがけず子を授かったのは慶事なものの、正室の子ではなく、赤児には若い実母がいる。
正室である広元の養母は、すでに中年期年齢。素直で優しい性格の子玖の存在が、彼女には大きな癒しとなっていることを、広元は強く感じ取っていた。
ひと会話を終えた子玖は出された水をひと口飲み、数日前に石家の中庭で獲れたばかりの李の実をふたつ、腰の巾着から出した。
ちょっとした家には、李の木が植えられていることが多い。ちょうど実が熟す時期だ。
子玖は布拭きしたひとつを広元に渡し、もうひとつを両掌で撫でつつ、おもむろに尋ねる。
「兄上も、元気でおられますか」
兄(と子玖は思っている)、珖明の顔を子玖が一番最近に見たのは、ひと月あまり前になる。
「もちろん元気だよ。今はたまたま所用で出かけてるけれど。水鏡先生の塾へも、足繁く通っているし」
「! そうですか。それはすてきだ」
こんなやりとりが交わされる環境になるとは、広元も子玖も、宛にいた頃には想像もつかなかった。
独居に際し、広元はある思い切った選択をしていた。彼は現在この居宅で、珖明とふたり暮らしをしているのである。
<次回〜 第76話「苦肉の新生活」>




