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第73話 私塾の異端児〈1〉

◇第二章 後編 〜水琴哀鳴すいきんあいめい


 建安三年(西暦198年)。

「怪物兵器」と謳われた呂布が曹操に葬られた。

 割拠していた数多勢力も淘汰が進み、次第に絞られていく。


 風前の灯たる漢王朝の天子をかこって実権を握り出す曹操と、河北の名門・袁紹の対立が沸点間際の中、荊州は危うい均衡を保っている。


 ……そして。

 世の表舞台からは隠された闇の一組織が、永き眠りを起こし、目的への静かな躍動を始めていた……。

 大地の起伏を塗り潰す漆黒夜であった。


 風無く、夜鳥の声も、樹々の葉の囁きさえ、不気味なほど鳴りを潜めている。

 唯一、この辺りきっての景勝地・檀渓だんけいの谷底を走る急流の水音だけが、低い地響きのように川を挟む岩に共鳴していた。 


 地上を見降ろすは、闇空を研ぎ切った刃物ですっと鋭く裂いた、切創の如き鉤月(こうげつ)(三日月)。

 それは獲物を狙う、獰猛ねいもう獣の爪にも似る。


 急流を見下ろす岩山上に、ひとつの人影があった。


 まだ、若い。

 (あかり)も持たぬ長躯な青年は、この暗闇に怯えるふうもなく背筋を伸ばし、無言で立っている。


 月明かりも得られぬ中、通常の人間の視力では何も認められぬはず。

 にもかかわらず彼の(ひとみ)は、空とは違う〈何か〉を凝視()つめている。


〝 見つけた 〟


 青年の耳に甦る、冷ややかに高揚した(めい)の声。


〝 あの者は強い。我らに必要だ。必ず(とら)え、導け 〟


 夜闇を見上げた青年の眼が、頭上の剣月の如く、光る――


挿絵(By みてみん)


◇◇◇


「どうした、喧嘩けんかか。それとも物盗りにでもやられたのか」


 列肆れっしいちの店舗)が両脇に並ぶ袋小路の奥で、斜陽の作る影隅にうずくまり痛みに耐えていた青年、崔衡さいこうの背に声を掛ける者があった。


 建安三年(西暦198年)初夏、荊州の州治所・襄陽じょうよう県の城郭内。

 晩照を受け、辺り一面は紅く染まり始めている。


 崔衡は声に振り向かず、心中で軽く舌打ちした。


 ―――― 物盗りの被害者なら、こんな風に隠れてはいないだろうに。


 放っといてくれと言わんばかり、崔衡は声主に対してより背を丸めた。

 そんな態度にもかかわらず、意を汲めないのか無視しているのか、声の者は構わず崔衡に寄り、肩に手をかける。


「どこか傷めてるのか」

「……」


 崔衡の腕や足、実は衣服下にまで、あちこちに殴られたあざや擦り傷が出来ている。

 幸い致命的な怪我はしていない。ただ右足首だけがかなり青黒く鬱血うっけつし、腫れていた。


「足首か」


 声の者が崔衡の右足首に手を差し出す。


 その手指のあまりに細白く美しいかたちが崔衡の視界端に入り、ぎょっとして、崔衡はとっさに足を引っ込めようとした。


「あっ、()う」


 動かした反動が、ズキリ、脳天にまで重く響く。


「強くひねったか。……まあ、骨は折れていなそうだ」


 白い手指相手の、軽くいなすような口調。

 崔衡はそこでやっと声主の顔を見た。


 ―――― あ……?


 見知った顔だった。

 崔衡の通っている司馬徽しばき、通称・水鏡すいきょう先生の私塾につい最近現れた、二十二歳の崔衡より、多分いくつか歳下と思われる門下生。


 容姿が長身美麗でひときわ目立つため、誰の目にも一見で印象に残る人物ではあった。

 ただ新参者だからか、塾では極端に無口で、崔衡もまだ一度も言葉を交わしたことはない。


 まあしかし良かった、どうやらとりあえず男だ。

 崔衡はほっと息をつく。

 掛けられた声音の細さや、さきほど差し出された手を見た寸瞬、『女に介抱されるのか』と焦ったのだ。

 ……とはいえ、みっともない姿を見られていることに変わりはないのだが。


 少し待て、と立ち上がった介抱役の青年は、近くの水場へ行き、濡らせ絞った布を手にしてきて、崔衡の腫れた右足首に当て巻いた。


 冷んやりとした感触が、熱を持った患部に心地良い。


「ずいぶんとやられたな。複数だったか」

「……」


 何も説明していないのに、どうも事情を想像されている。

 崔衡は左右眉を歪めた。


 その生い立ち理由から、崔衡はこれまで常に、孤独と共存させられていた。

 今日も市街で所用を済ませた帰路、三、四人に囲まれて、無意味な冷やかし、俗に言ういじめ対象になったのだ。


「いちいち相手にするのが面倒なだけだ」


 吐いた言葉と服のほこりを、崔衡はまとめて叩き払う。

 本当に腹など立っていない。そんな心境を、彼はもうとうに卒業している。


 おせっかいな青年は左手を差し出し、


「肩を。家まで送るよ」


 そう言って、崔衡の腕をとろうとする。


「まさか。いいよ」


 この上冗談ではないと見上げる崔衡に、青年は端正な容顔をゆるませ、柔らかく笑んだ。


「その足じゃ、ひとりではまともに歩けないだろう。相当に意地っ張りだな、きみも」


◇◇◇


 日没時の太陽の動きは、日中より速い。空はまたたく間に、朱から紺へと色味を変えていく。


 崔衡が見上げた空には、螢惑けいこく(火星)が赤い瞬きを始めていた。

 光がチラチラとゆらめくことで名付けられた螢惑は、漢を興した高祖(劉邦)の死を暗示した『凶星』とされている。


 不吉と言われれば確かにそう見えるであろうが、崔衡はそれほど嫌っていない。

 数ある星々の中でも個性的で、夜闇での良き指標にもなる星だと、たまに見入ってしまうときがあった。


 赤星を仰ぎつつ、自身よりいくぶん丈高感のある青年の細い肩を借り、崔衡は腫れた右足を引きずって歩いている。

 誰ともすれ違わないことを祈りつつ、彼はこれまで遠目に見ていた、この白面青年についての情報を整理した。


 私塾では、塾生が師の講釈を受けたり、各々読書したりして学問に励むわけだが、門下生が自然集って、若さの特権とばかりに、長時間熱い議論を闘わせる場面などもままある。

 しかしこの青年は、そうした輪に一度も入ってきたことはなかった。

 いつも室の隅の方に場所をとり、ひとり黙々と独学していて、且つ、どこか酷く近寄り硬い空気を醸し出している。


 青年が珍しく誰かと会話をしているような姿といえば、最初に彼を塾に伴って来た、潁川えいせんからの移住者だという石韜せきとうと、その同郷の徐福じょふく相手以外に、崔衡は見かけたことはない。


 ―――― まあ、じぶんも他人のことは言えないがな。


 崔衡は心中で嗤笑ししょうする。


 門下生の輪の場には、崔衡もごく稀に形上参加する折があった。なれど発言はまずしない。

 周囲も彼に意見を求めない。たまに崔衡に話しかけるのは、先の石韜、徐福のふたりと、その二名と親しい、汝南じょなん出身の孟建もうけんくらいのものだ。


 崔衡自身、塾生の中で浮いている存在であった。

 その理由は、本人も必要以上に自覚している。


 日常がそんな風であるから、今日この青年が崔衡に自ら声をかけ、肩まで貸してくれているなどは、相当意外な展開だ。青年は多分、崔衡が同門生と気付いていないのだろう。


 ―――― 少しは人らしく、笑むこともあるんだな。


 勝手に〈澄まし込んだやつ〉だと決め込んでいたせいで、崔衡はそんなおかしなことも思う。


 はかどらぬ速度の歩みであったふたりも、西門の閉門には間に合った。


 襄陽の城壁門は、城壁と繋いだ鎖を滑車で上げ下ろしする吊り橋構造になっている。 

 外へと渡る足下の橋板の下は、ごうの水面。この西門だけでなく、襄陽城の三方、東・西・南の外側には、凄まじく広大な濠が成されていた。幅は四十丈(約92m)をゆうに超える。

 北壁の外は天然の濠、沔水べんすい


 つまり襄陽城は、四方を膨大量の水に囲まれた水上城なのである。


「閉門に間に合ってよかったな」

「……」


 こちらの歩調に合わせて肩を貸してくれている青年に、崔衡は気の利いた受け答えも出来ない。


 西濠を越えた彼らの前に、濠とは別の水流が見えた。城郭の西側手前で沔水から枝分かれしている檀渓だんけい水だ。


 沔水も壇渓水も、大元は遠く西に端を発する漢水である。

 漢水は荊州近辺で沔水と名を変え、襄陽を北東角地としてほぼ直角に大きく折れ曲がり、南へ走る。

 行き着く先は、南方の巨大な大川たいせん江水こうすい(長江)。

 

 水に囲まれた城、襄陽。

 荊州の州治所であるこの大都市を地形的に要約すると、常識外規模の人工濠装備に加え、北と東を流れる沔水本流、西の檀渓水とで二重に守られているという、稀に見る<水守の要塞>であった。


 叔父一家と共に住んでいる崔衡の邸は、檀渓水を城側から渡った対岸沿いにある。やや面倒である渡河を除けば、城門から距離的にはさほど遠くない。


 ―――― もう夜禁令の時刻だ。


 漢律(かんりつ)(法律)では、防犯措置の観点から、夜間外出を禁止する法が施行されている。


 とはいえ元々ゆるい城外基準、加え昨今の様な戦乱期になってからは、実質ほぼ暗黙無視されている法であった。

 それでも巡回兵に珍しく出くわせば、咎められることがまったくないとは言えぬし、そもそも夜道は危険だ。


 ―――― 彼の住まいはどこだろう?


 青年の帰路を崔衡は気持ち案じた。承知の上で送ってくれているのだろうが……。

 そういえばまだ、名も聞いていない。


 真横に顔がある肩貸しの青年に、崔衡は前方を見たまま遅ればせに言った。


「今日は、その……有難う。わたしの名は……州平しゅうへい、だ」


 『州平』はあざなである。

 姓といみな(本名)を崔衡は名乗らなかった。……いや、名乗れなかった。


 崔衡を支え歩く女顔の青年は、涼やかな目で空を見上げる。

 螢惑星が存在感を増していた。他にも点々と、小さな光の仲間が増え出している。


「わたしは諸葛珖明という。襄陽には一昨年来た。石広元と一緒に住んでる」

「一緒に?」

「わたしは広元の居候なんだよ」


 そこで珖明青年は、崔衡の足許に視線を落とした。


「その足、()()()と侮らずに、二、三日は大事にした方がいいぞ」


 切長の形良いひとみを崔衡と合わせ、微笑する。


()えたらその内、塾で会おう。崔州平どの」



<次回〜 第74話「私塾の異端児〈2〉」>

 第二章後編、スタートしました。

 動乱の中、青年たちの友情と、切ない恋模様が紡がれていきます。

 この先もお付き合い、よろしくお願いいたします。


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