第72話 出立〈2〉
周瑜は、うなずきも言葉も返さなかった。
不機嫌さとは違う遠い眸で、彼は思惟している。
同行の承諾を得られなかったことは、当然ながら遺憾。されど失望とは違う。
珖明の発したひとつの言葉が、周瑜の胸中を巡っていた。
〝 生場 〟
己の生きる場所。己を生かすべき場所。
では、我の『生場』とは、いかなる地であろうか 。
……
「どうか、生き急がずにください。公瑾様」
無言の周瑜に珖明が注ぐのは、包み支えるような気。
「あなた様には、孫候とはまた別の大切な使命があるとわたしは信じます。時宜はきっと訪れましょう。この先に、必ず」
「……」
周瑜は珖明に瞳を据える。
彼の重厚な眼光は心中を語り、珖明から伝えられたものを、瞬がず受け止めていた。
◇◇◇
四日の後。広元と珖明は襄陽へ向け、魯粛邸を発つことになった。
出立準備の段階で、広元はまたもや思わぬことに驚懼させられる。
広元達の帰路旅に最低限必要な基本物資、それらを積んだうえで、人もひとりほどなら乗れる小型の軒車(屋根付きの馬車)、さらには護衛一名までもを、魯粛が提供してくれたのだ。
「この護衛の男は荊州南郡に親族を持つ者でしてね。なかなか腕も立ちますし、信頼して大丈夫です。道中お連れください。襄陽までは往路同様長旅ですから」
「子敬様……」
あまりの配慮に、広元は答える言葉が出てこない。
居巣入りしたとき、広元達は龐家からあてがわれた一頭引き荷馬車を伴っていたのだが、到着出鼻の例の災禍の折にほぼ失ってしまった。
賊は斃したとて、一時でも放置されたものが無事でいられるほど、むろん世相は甘くない。
その後に珖明が、どう探し当てたのか馬だけは取り返して来たものの、帰路の装備としては、全体にはなはだ心細い状況だったのである。
「子敬様、その……どう申し上げれば良いか」
既に治療や療養までも、全面無償で世話をしてくれていた上になのだ。
桁違いで受ける恩恵に、広元は口ごもるばかり。そんな若者を、魯粛は体格比例の太い朗笑で助けた。
「わたしからの餞別です。気兼ねなく受け取ってくだされ」
迫力ある面相と、実年齢に合わぬ貫禄。
代々の資産家系を継いでいる魯粛にすれば、このようなことは、ごく自然な行為なのかもしれない。
―――― 資金の使い価値とは、なんと多様か。
中庸官吏家系に生まれ育った広元も、贅沢感覚はないにせよ、これまでに自覚するほどな金銭的苦労をした経験はない。
だが、世には桁外れな上者がいるのを知った。
資金は力に間違いなくも、大切なのは〈どう使うか〉なのだ。その貴重な模範の一端を、魯粛は見せてくれている。
続き魯粛は、両手に持った袋を広元に差し出した。
「これは、龐士元どのからです」
「士元どのが?」
受け取った広元の腕が、ずしりと一段下がる。開けてみると、そこそこ量ある銅銭。
「遠路はるばる訪ねてくれたことへの、心ばかりの感謝だそうです。『往路同様、帰路の資金も龐家が諸所で手配しているでしょうが、足しに』と」
「……」
「護衛同伴とはいえ隠してお持ちなされ。重いですが、いざという時には身を守る武器ともなります」
「……士元どの……」
母堂の便り一通を届け、返り文を受け取っただけとなってしまったという結末。
飄々としていた龐統も、広元達に対し、伝えたい強い念いがあったのだ。
魯粛の送別代理は続く。
控えさせていた馬一頭を、広元の前に引き寄せた。
「この馬をお使いください」
「えっ?」
「失礼だが、あなたたちのその馬はやや老馬のようです。こちらとお取替えを。幾らかは若馬です、お役に立ちましょう」
一見しても、かなりの良馬。
「この馬は周県長からです。珖明どのに対し、賊から童子達を救ってくれたことへの礼だと」
「……」
軍用でなくとも、馬は極めて高価品である。
礼という筋はあるにせよ、そこには周瑜の珖明に対する想いがみて取れた。
―――― 公瑾どのには、非礼をしたというのに。
昨日、広元と珖明は出立前の最後の挨拶に、周瑜と龐統を訪ねていた。
「明日、発つのか。名残惜しいが」
周瑜の面様は、先の厳しい会話時とは打って変わり、どこか解放されたような
澄色であった。
広元は揖し、深謝する。
「公瑾様に命を救われたこと、生涯忘れません。今後のご武運を心より祈念申し上げます」
首肯する周瑜。
続き広元は、横に立つ龐統に向いた。
「御母堂への文は必ずやお届けします。士元どのも、どうぞお健やかに」
「かたじけない。わが龐家への尽力、この龐統も生涯忘れませぬぞ」
広元の言葉をなぞった龐統も、柔らかな目見で別れの辞を示す。
龐統と広元のやり取りを背に、周瑜はゆっくりと窓際に寄り、しばし無言で、
雲合間に刺す陽帯を見遣やった。
やがてさらり振り返ると、持ち前の整った眉目に力強い笑みを作り、別れの場
を締める。
「互いの生をまっとうしようぞ。……広元、珖明。いずれまた会おう」
―――― 周瑜、魯粛、龐統……。
今、彼らとの別れに際し、広元は思う。
広元がこの旅で学んだものは、人の〈念い〉、そして〈実〉であった。
心根だけで事は成らない。しかし事を発し、果たすのは心根なのだ。
そのふたつは絡みあってこそ、成立っている。
居巣での交流の中で、彼らは広元に見事な教えを体現してくれた。
……
広元は魯粛且つこの場にはおらぬふたりへの想いを込め、魯粛に拝跪(ひざまずいて拝む姿勢)した。
「この地で賜りましたひとかたならぬご厚情、深謝の極みです。子敬様におかれましても、心願がご成就いたしますよう、心底より祈っております。子敬様方に恥じぬよう、わたしも必ずや、己を世のために活かします」
◇◇◇
魯粛邸を起った広元と珖明は、居巣城のほど近くにある小高い丘に上がった。
全景とはいかずとも、居巣の城郭と巣湖の一部が見渡せる場所である。
「やっぱり大きいな、巣湖は。対岸が見えない」
居巣城の一景色を見渡した広元は、ぐるり視線を回し、遥か江水の向こう、会稽や呉のある東南方角の空を見渡した。
―――― 周瑜は近々、念願の孫策の許に馳せるのだろう。魯粛と……たぶん龐統も連れて。
周瑜が広元と龐統との面会までに時間を空けたのは、龐統の意志決定までの間を稼ぐ、という事情があったのかも知れない。龐統は広元と会うよりも前に、おそらくは意向を固めていたのだ。
孫策を選んだ周瑜。その周瑜を選んだ龐統。
―――― 龐統はもう、襄陽に戻らぬつもりだろうか。
仕える主人を選ぶとは、そこまでの決意を持たねばならぬ重要選択。それが出仕というものなのか。……
広元は今一度、居巣城に目を戻した。
出掛けの朝靄は消え、朝陽が城壁の影を濃く描き始めている。ふた月前、初目にした同じ城郭であるのに、どこか違って見えるのは、見る側の心情変化であろうか。
「……」
澄んだ朝の気を、広元は深く肺に吸い込んだ。
出会った人々……それぞれの事情、それぞれの思惑。
千差万別なれど、皆、〈己の生〉を力強く生きている。
『いずれまた、会おう』
―――― ああ、本当に。
いつか再び、彼らと会える時があるだろうか……。
ふと眼下に、三羽の鸛(コウノトリ)の飛行姿が見えた。
冬の到来を告げる鸛。おそらく巣湖で越冬している群れの仲間だろう。
鸛は子宝をもたらす吉の象徴と言われる一方で、不安・警告を知らせる動物ともされている。
成鳥は鳴き声を発しない。代わりに嘴を激しく打ち鳴らすことで、互いの意思疎通をはかると考えられている、少々変わった鳥であった。
そうやって成り立った番は、一度組んだ相手との関係を生涯貫くという。
広元は無言でしばらく、鳴かぬ三羽の飛翔を追った。
……
羽ばたきに応じた、早朝の透きとおった風が渡る。
広元の吐く息はまだ白付いていない。だが空気は確かに、本格的な冬を迎えようとしている。
「今日の天気は良さそうだ。出立には有難いな」
広元は後ろにいた珖明に、爽やかな目見を送る。
「帰ろう、珖明。襄陽へ」
珖明は、静かな笑みで頷いた。
◇◇◇
広元達が居巣を後にした二年後の、建安四年、夏。
中国は、漢王朝終末乱世が始まって以来最大の戦である〈官渡の戦い〉の幕明けを迎える。
袁紹対曹操。
長きに渡ったその大戦の勝敗は、その後の世の方向を決定付け、波紋はこの時代に生きる全ての者の人生を、大きな振り子の如く揺らせた。
広元、珖明、周瑜、魯粛、陸議。
居巣で出会った彼らは、この先の大舞台において再会と別れを繰り返し、歴史に大きな轍を残していくこととなるのである。
(第二章 前編「異郷の琴夜」 完)
第二章 前編「異郷の琴夜」。最後までお読みいただきありがとうございました。
物語舞台はこの後、広元と珖明の本拠地である荊州・襄陽へと戻ります。
新たな出会い、再会。
激しさを増す戦乱時代の波に揉まれながらの、彼らの濃厚な青春劇を堪能ください。
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<次回〜 第二章「冥漠を裂く赤き鉤月」
後編「水琴哀鳴」 第73話 「私塾の異端児」>




