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第71話 出立〈1〉

 それは周瑜からの、思い掛けぬ提案であった。


会稽かいけい浙江せっこう紹興(しょうこう)市)に、共に行ってみぬか」

「……」


 広元も珖明も理解している。

 会稽に同行 ―― つまり『現会稽太守・孫策に会え』という意味だ。


 思い掛けぬとは、正確ではないかもしれない。

 広元達が魯粛ろしゅくの邸で世話を受けるようになってから、ひと月半余り。

 これほど接していれば、広元も周瑜という人物の才分や性格を、それなりに把握している。


 行政組織が壊れ、中央施政が正常に機能していないこの世情下、


 ―――― 周瑜ほどの男が、こんな片田舎の県長職など欲しているはずはない。


 孫策から引き離す画策をした袁術を躱《かわ》すため、敢えて袁術のいる場所近くの居巣の県長を周瑜が自ら求めたのだ、ということは、広元にも推察ができている。

 周瑜には有り余る誇りと実力、且つ正統な野心がうずいているのだ。


 即答せずにいるふたりに対し、腕組みをした周瑜は、入ったばかりの報を重い声で知らせた。


「袁術が陳国に侵攻した。陳相の駱俊らくしゅんと、国王の劉寵りゅうちょうを暗殺してな」

「陳王を暗殺…!?」


 広元は仰天声をあげる。


 駱俊は予想通り、袁術からの飢饉支援要請を断った。

 腹を立てた『自称皇帝』袁術は、刺客を用いて仁君と名高い駱俊と陳王を殺害、陳国支配を強行するという、とんでもない行動に出たのである。


 袁術と陳国の衝突が予期されていたとは言え、これは最悪のやり方だ。


 ―――― 今朝から漂っていた異質な緊迫感は、この報のせいだったか。


 広元の身が引き締まる。

 危惧していた事態が、遂に動き出してしまった……。


 周瑜は事の重大さに慌てる様子もなく、補足を続けた。


「袁術はさらに、近隣のはい国・県へも包囲を進めているようだ。すれば当然、曹操が袁術討伐に東征して来よう」


 袁術はこの機に、宿敵曹操への報復にも乗り出したらしい。


「袁術が……曹操と」


 広元の声色に、袁術に対する哀れみめいた響きが混じる。

 皇帝のつもりである袁術にしてみれば不自然ない展開かも知れぬが、外野から俯瞰ふかんすれば、その無謀さは歴然としていた。


 ―――― 袁術の身辺には、()()()()判断を出来る臣下が、いないのだろうか。


 官吏でもない広元でさえ、認識できるというのに。


 広元の心情を汲み取っている周瑜は、腕組みをほどいた手を後ろに組み直し、あごを上向き加減にして、おもむろに三歩ほど歩いた。

 ……やがて立ち止まった、低語。


「この地も、潮時だな」


 音量は呟きだが、確とした強さがあった。


 時の猶予は、完全に失せた。曹操対袁術の戦い結果がどうなるにせよ、周瑜は己の計画実行に即時、動かねばならない。


 後ろ手を下ろした周瑜は眉を引き締め、ふたりに正対する。


「聞き及んでいるだろうが、孫候(孫策)の騎虎きこの勢いは凄まじい。実績、人格からしても申し分なく人身を集めている。貴君らにも一度、直接会ってもらいたいと思うが」

「……」


 広元は瞳だけを、隣に立つ珖明に遣った。

 ずっと無言で立っているだけの珖明の貌から、相変わらず感情は読み取れない。


 広元や珖明にすれば、周瑜からのこの誘いが、光栄な話であることには違いなかった。

 ただ、広元は承知している。


 ―――― 周瑜は、珖明が欲しいのだ。


 魯粛に同調するまでもなく、周瑜は強烈な魅力を持った男。だがそれを珖明が本音でどう捉えているのかまでは、わからない。


 広元は眼差しを床へ落とす。


 ―――― もしも珖明本人が、ここで会稽行きを希望したら。


 広元自身がいくらそれを望まなくとも、友人の選択肢を奪う権利は、自分にはない……。


 続く沈黙。押しの強い周瑜が、根気よく返答を待っている。

 ……そして。


「公瑾様」


 広元は口火を切った。上げた額には、覚悟が描かれている。


「命を救って頂いた御恩に加え、過分なお申し出、衷心より光栄に思います。……ですが」


 聴いている周瑜の眼が引き締まる。


「ですがわたしは、会稽にはご一緒できません」


 元来の至誠さを以て、広元はかしこまり、目前の高潔な士に対する。


「わたしは請け負った龐氏からのご依頼と、これまでの我儘わがままを許してくれた両親のために荊州に戻ります。しかし今の世に対し、傍観者でいるつもりもありません。周県長様、魯子敬様にお会いできた経験を、今後必ず活かす所存です」

「……」


 想定内の応えだったのだろう。周瑜は深い会得の面持ちで首肯うなずく。


「……そうか」


 続き彼は、目線を隣の諸葛亮に向けた。


 ―――― この者は、何とかして欲しい。


 説得に周瑜が口を開きかけたとき、先に諸葛亮が発した。


「孫侯とは、どのようなお方ですか」

「……!?」


 突とされた今更のような問いに、周瑜は返って途惑いを生じて言葉を呑んでしまった。


 孫策。

 己と誕生日もひと月しか違わぬ彼とは、十余歳の出会いから今まで、それこそ兄弟同然の間柄で付き合い、盟友としても硬い絆を結んでいる。

 周瑜は孫策をたすけながら、共に各地への勢力拡大に明け暮れてきた。


 孫策の勢いは『江東の虎』の異名をとった父親の孫堅さながら……いやそれ以上に凄まじく、今や『孫策』という名を聞くだけで、江東江南地域の住民は皆、震慄しんりつする。


 しかし。

 孫策はその燃焼力が、突き抜け過ぎていた。

 錚錚そうそうたる気質はあまりに剛毅果断ごうきかだんであり、急速で苛烈。

 結果、周囲に多くの怨恨までも生んでしまっているのも、また事実であった。


 同義語の『勇猛果敢』といった一言の形容では周瑜も同様となろうが、孫策のそれとは少し違う印象だ。

 それでも周瑜は、少年時に決めた思いと変わらず、孫策との未来を目指している。

 

 ―――― 『孫侯とは』、か。


 周瑜は再び胸前に腕を組み、目を閉じる。

 そんなことを改めて自身に問い糾すのは久方だ。


 じっくり、五つほど息をし……そして。


「〝 覇魂はこん 〟だな」


 開いたひとみで天井と睨み合う。

 彼の脳裏には、戦場で躍動する孫策の画が駆けていた。


「覇気のかたまり。あれは、覇魂の怪物だ」


 その形容は、良きも悪きも含めた、周瑜から孫策への最大限の賛辞であった。

 周瑜の隠喩いんゆに、珖明はを細める。


「なるほど、印象的です。『覇魂の怪物』……まさしく孫候に相応しいのでしょう」


 感慨深げに顔を仰がせた。


「人は生まれ出た時代に生き、最後は必ず死ぬ。孫候は乱世の激しさこそが生場いきばの、特別なお方のようですね。同じ時に生まれ出た身としては、この上なく羨ましい」


 首筋を一度真っ直ぐ起こした後、珖明は周瑜に叉手さしゅ(敬意の所作)の礼をした。


「わたしも会稽へは参れません。孫候とは、生場が違います」



<次回〜 第72話「出立しゅったつ〈2〉」(第二章前編 最終話)>

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