第70話 異郷の琴夜〈3〉
冷気を帯びた、仲秋の颯颯。
抜け去った風を見送った周瑜は、無言の面を自身の酒杯に落とした。
珖明には答えず、そのまま呷る。
ひとつ肺の空気を入れ替えるような大息をした後、周瑜はふいに、
「そなた、犬が好きなのか?」
まったく別の話題を口にした。
「だが、あれは無謀だぞ」
「……」
もちろん昼の一件のことを指している。
繋がりの無い振りの意図を解した珖明は、たった今見せた眼光を収め、伏し目がちに。
「……瞳の色が」
「瞳?」
「昔の友に似ていたのです。錫色の」
「眼が犬に似た友、か?」
「いえ。人ではありませんが」
悪気なく返された言に、珖明は微笑する。
「同じような黒毛で。その友は、先の宛の乱で命を落としました」
「……」
「それだけです。昼の件はおっしゃる通り、無謀でした。対応していただいた一連、感謝いたします」
珖明は素直に礼を述べた。
「……そうか」
周瑜としては、礼を言って欲しいなどというつもりで、振ったのではなかったが。
「そうだったか。友にな」
彼もまた、柔らかな目色で答える。
当夜、珖明の本質の一部を掘り下げられた手応えを周瑜は得ていた。
そうして改めて思ったのだ。
諸葛亮。
この者、やはり興味深い。
◇◇◇
賊乱の翌日、体調の安定した珖明を広元は牛車で周瑜邸まで迎えに訪れ、ふたりは魯粛邸へと戻った。
賊乱が起きたとき、広元は魯粛邸にいた。先日に居巣庁舎を訪問したことが、やはり体力的に響いたのか、あの直後に瘡の痛みがぶり返し、体調を崩して横になっていたのだ。
騒ぎ勃発の報が入り、且つ珖明の姿が邸内に見当たらないことに気付いたのは、魯粛から『私兵を繰り出す』と伝えられた直後であった。
―――― もしや……?
胸騒ぎから広元自身も現場に向かおうとしたところを、魯粛に強く止められた。
「珖明どのが現場にいるとは思えませんが、万一には我々が必ず守ります。広元どのは邸に居てください。珖明どのが戻るやもしれませんからね」
「……」
当たり前の説得。
言葉を婉曲にしているものの、体調不良の上に、武で役にも立たない者がしゃしゃり出るなど、返って足手まといなのは広元にもわかる。
広元は焦燥に耐えるしかなかった。
同日夕刻に周瑜からの伝言を受け、一応は胸を撫で下ろしたものの、怪我の詳細説明まではない。加えてある離れぬ懸念があった広元は、翌日朝一番で、周瑜邸へと向かったのだった。
魯粛邸へと帰す牛車内で、治療や経過について何かと尋ねる広元に対し、珖明は平素と変わらず、恬然として答える。
「瘡理由の発熱は身体の正常な反応だし、命にかかわるほどのものでもない。実際こうして起き上がれているだろう。いったい何をそう、落ち着かない」
「……別に」
広元は間の悪くなった折の癖である、顳顬を掻く所作をする。
珖明は薄く苦笑した。
心配性質の広元が何を気にしているのか、実はよくわかっている。
「広元。きみの関心はわたしの体調についてか。それとも、周瑜邸で他にも何かあったか、か」
「!? ……いや、そんな」
つい、わかりやすい態度を珖明に見せてしまっていたことに気付き、広元は余計に慌てた。
珖明の投げてくる指摘は、往々にして直球で容赦がない。しかもその見立ては大抵、呆れるほどに合っている。
言葉選びに困っている様子の広元を、珖明は軽妙口調で助けてやる。
「治療と食事を受けて、いくつか時事談を交わしただけだ」
「……」
「普段余裕を見せている周瑜も、その実は難しい立場を抱えているからな。素人の意見なりと聞いて、少し息抜きしたかったのではないか」
「そう……そうだな」
広元とて鈍いわけではない。
賢才資質ふたりの時事会話が、『息抜き』などというものとはほど遠かっただろうと察している。
少なくとも周瑜側は珖明を相手に、そんな心算ではなかっただろう。
珖明はゆとりの息で付け加える。
「あとは……彼の琴は、まさに名人の域だったな。子敬どのが強調するのも合点がいく」
そして顎を引き口端を上げて、低く締めた。
「そんなに案じなくていい、広元。周瑜はわたしについて、何も気付いてはいないさ」
◇◇◇
晩秋も過ぎ、季節は日々冬らしさを増し始めていく。
その日薄霧に目覚めた広元は、魯粛邸から城を遠目に眺めながら、伝わってくる感覚に異和を得ていた。
居巣城全体を、どことなくいつもと違う空気が覆っている。
―――― 何だろう……下がった気温のせいとは、少し違うような。
張り詰めた、何か。言葉での表現が難しい。
ただ、魯粛邸近辺は広元の見る限り、通常より少しだけ兵らしき者の往来が目に付くくらいだ。
それ以上特段変わった証はなく、平静を装っている。
しかしそこには、緊張と怱忙、矛盾する二つが共存しているような、何となく居心地の悪い息遣いがあるのを、広元の肌は捉えてならなかった。
俗にいう、胸騒ぎというものであろうか。
つい昨日のこと。
体力の完全回復を自覚した広元は珖明に話した。
「そろそろ、荊州帰路に発たないとな」
なるべく真冬にならぬ内に、襄陽へと戻らねばならない。
居巣で不慮の事態があったにしても、今回の旅は長くなり過ぎていた。さしもの石家両親も『いい加減にしろ』と気を揉んでいるだろう。
龐統の返し文はすでに預かっている。珖明の右腕の箭瘡も、幸い重篤化することなく、順調な快癒に向かっていた。
―――― 今日にでも、皆様に出立の挨拶をしよう。
意を決めた広元が腰を上げようとしたとき、室の扉から慌ただしげな呼び声がした。
開けたそこには、魯粛。
「おふたりに、お呼びの使者が来ています」
走ってきたのか、息を弾ませている。
「公瑾どのからです。急ぎ自邸へ来てもらいたいと」
<次回〜 第71話「出立〈1〉」>




