07話 決心
堰の修理が始まった。
ブドウ畑が費用を負担した石や材木を、麦農家たちが担いでいく。
昼時になると、ブドウ畑の方からたくさんのパンと大鍋が運ばれてきた。仔牛の煮込みだろう、いい匂いが漂ってくる。
「ちょっとネイル、多すぎやしないかい?」
「いやいや、まだ足りないよ。あんたらにはカロリーでお礼しないとね」
「これ以上太ったらどうしてくれるんだい!」
カルメとネイル。このふたりならきっと、今後もうまくやれる。
ふたりのやり取りを遠くから見ていたフランは、心からそう感じた。
「お嬢様、こっちに来て一緒に食べんかい?」
カルメたちに誘われて、フランはそっとノートを閉じた。
このフランの采配は、村から村へ、ひとりでに歩いていった。
数日後、カベルネ家の門の前には、長蛇の列ができていた。
「となりの鶏が、うちの畑を食い荒らすんです!」
「給料をごまかされるんでさぁ!」
「お嬢様、うちの嫁と姑が手に負えんで……」
カベルネ家が治める村々から、様々な訴えが持ち込まれてきたのである。
「ま、待ってください、順番に! 順番に! ええと、鶏? 鶏がなんでしたっけ!?」
「あらあら、大繁盛ね」ミトスが微笑ましそうに言った。
ゲルニシュトも「あの子に任せとけばもう大丈夫だろう」と、他人事のようにお茶をすすっていた。
そうして、ひとつ、またひとつと、小さな争いを聞いていくうちに、フランはふと思った。
——私は、こういうのが、好きなのかもしれない。
人の争いを収める。いや、人の平和を守ることが。
でも、同時に別の声が聞こえた。
(本当にそれでいいの? お姉様のようになれなかったから、仕方なく、いちばん楽な道を選ぼうとしているだけじゃないの?)
願書の受付は初雪の頃まで。
空は日に日に冷たく澄んで、冬特有の曇り空が近づいてきていた。
そんなある日、フランのもとに手紙が届いた。
エリートコースをひた走る、姉のソーヴィニヨンからだった。
フランへ
お父様からの手紙で、あなたが士官学校を去ったと知りました。
すこし悔しいです。あなたがいつか、私の隣に並んでくれると思っていたので。
けれど、続きを読んで驚きました。用水路の揉め事を、剣も抜かずに収めたとか。私なら「領主の命に従いなさい」と押し付けていたと思います。そして来年には、もっと大きな揉めごとに発展させていたでしょう。
あなたには、私にないものがある。
あなたらしく進みなさい。
どの道を選んでも、私はあなたを誇りに思います。
追伸 親衛隊はなにかと息が詰まるので、ワインを送ってくれるとうれしいな。
ソーヴィニヨンより
手紙を読むうちに、フランの目には涙が浮かんでいた。
お姉様が認めてくれていたこと、そして、自分らしく進みなさいと後押しをしてくれたこと。
私は、ずっとお姉様の背中を見て育った。
お姉様に少しでも近づこうと、その背中を追いかけ続けていた。
でも、本当に追いつきたいのは、お姉様の背中ではなかったのかもしれない。
私が追いかけたかったのは、人のために活躍できる自分なのかもしれない。
剣を抜かなくても、馬に乗らなくてもできること。
私なりに、この世界の平和を守れるんじゃないか。
* * *
その夜。食卓で、フランは静かにフォークを置いた。
「お父様、お母様。お話があります」
ゲルニシュトは何事かと身構えて、パンを喉に詰まらせた。
慣れているのだろう、すかさずミトスがワインを差し出す。
やっとのことでパンを飲みこむと、ゲルニシュトは恐る恐る尋ねた。
「もしかして、家出じゃあるまいな? いや、好きに生きろとは言ったが、せめて行き先は教えなさい!」
壮大な勘違いに「違います」ときっぱり否定してから、フランは続けた。
「私、国土統一省に入ろうと思います」
食卓が、静まり返った。
「士官学校を退学したからではありません。親衛隊に入れなかったからでもありません。争っている人たちの話を、最後まで聞きたいんです。……国土統一省は、村の争いとは規模が違うでしょうけど、それでもやりたいんです!」
ゲルニシュトはゆっくりと頷いた。
頷いてから、ポツリと口を開いた。
「……そうか。まあ、好きに生きなさい」
「お父様、その返事はずるいです」
「……ずるい?」
「手紙のお返事と一緒じゃないですか。今度は本気なので、お父様の本心を、本当の気持ちをちゃんと答えてほしいのです」
ゲルニシュトは黙った。だが、やがてぼそりと言った。
「あの手紙の返事だがな、三日三晩、書き直したのだ」
「え?」
「本当は30枚ほど書いた。だが、なにを書いてもお前を縛る気がしてな。それならいっそ、我々夫婦の願いだけを書こうということになった」
ミトスが茶化すように言った。
「お父様は、泣きながらあのお返事を書いていたのよ」
「な、泣いてはおらんわ!」照れながら怒るゲルニシュトは、どこか滑稽だった。
「……つまりだ。お前の人生はお前が好きに生きたらいい。辛くなったら戻ってきなさい。またワインでも飲もうじゃないか」
「……ありがとうございます、お父様、お母様」
フランは頭を下げた。父は、鼻をこすって、わざとらしく咳払いをした。
「ところで、だ。国土統一省といえばな、隣の領主からすこし聞いたのだが」
「はい」
「セレーノ峡谷という土地を知っているか。そこでできる酒税を、アマロ侯爵家とヴェルデ男爵家が、どちらも自分のものだと言い張っているそうだ。どちらも頑固でなかなか引かん」
「セレーノ、峡谷」
聞いたことのない地名だった。
けれど、胸の奥のどこかが、小さく鳴った気がした。
「こういうのも国土統一省が扱うと思うと、すこし大変そうだな」
ゲルニシュトは心配そうに笑った。
部屋に戻ると、フランは鞄の奥底にあった願書を広げた。
推薦人の欄には、落ち着いたセミヨンの署名。その下には志望動機の空欄があった。
ペンを取り、心の向くままに書き出してみる。
『姉のように、人の役に立ちたいので』
——消した。
『人の役に立ちたいので』
——消した。
『剣も馬もだめですが』
——いや、そこは言わなくていい。消した。
しばらく考えて、フランはペンを走らせた。
『交渉で、世界の平和を守りたいからです』
それだけ書いた。
その下に自分の名前を書く。カベルネ・フラン。
進むべき道は決まった。後は一歩を踏み出すだけだ。
翌朝、願書を封筒に入れ、早馬で国土統一省に送った。寒い中央でも、まだ初雪は降っていないだろう。
その昼、士官学校から分厚い手紙が届いた。メルからだった。
17枚のうち16枚目までは、学校での他愛のない話とフランがいなくて寂しい気持ちで占めていた。
そして、17枚目の最初に、たった一行だけ。
『あなたが選んだ道を、私は全力で応援しています!』
「……メルさん」
フランは、手紙を胸に当てて微笑んだ。
空の高いところで、冷たい風が、ひゅうと鳴った。




