04話 帰郷
カベルネ領に着いたのは、よく晴れた午後だった。
刈り入れを終えた麦畑には、麦の束がずらりと積まれている。その向こうでは、ブドウがたわわな実をつけて枝をしならせていた。
馬車を降りたフランは、懐かしい匂いを胸いっぱいに吸いこんだ。
「ああ、帰ってきたんだなあ……」
麦束に近づいて、そっと触れてみる。
すると、どこからか野獣のような声が聞こえた。その声はどんどんとフランに近づいていって——。
「おかえりぃぃぃ!!! 愛する娘よおおお!!!!」
屋敷から全力で走ってきたのは、紛れもなくフランの父、ゲルニシュトだった。
フランは避ける間もなく、麦束ごと抱きしめられた。
「お、お父様、麦が刺さります」
「すまんすまん!」ゲルニシュトは慌ててフランを離した。「手紙はもらっていたが会うのは別だな! 愛しい我が娘よ、まずは顔を見せなさい!」
フランの顔をムニムニと触りながら、まるで子犬を愛でるかのように話しかけた。
「おお可愛い! さすがは母さんと私の娘だ! ん? 痩せたか? いや、痩せてないな! よしよし!」
領主とは思えない振舞い。フランが若干辟易していると、後ろから母のミトスがゆっくり歩いてきた。
「お帰りなさい、フラン」ミトスの声は優しかった。「お父様はね、朝から3回も、あなたが帰ってこないか領境まで見に来ていたのよ」
「母さん違うぞ! 5回だ!」
「あらそう、フラン、5回だそうよ」
フランは笑った。笑いながら、少し泣いた。
自主退学を認めてくれたことは、先の手紙でわかっていた。
それでも両親の顔を見るまで、呆れられているんじゃないか、怒っているんじゃないかと恐れていた。
その晩は、帰省を祝う宴会で大盛り上がりだった。ゲルニシュトは騒ぎ、使用人たちが道化る。ミトスがたしなめて、フランが笑う。とても楽しい夜だった。
食後、フランがテラスで夜風にあたっていると、ゲルニシュトがそっとやってきた。手にはワインとグラスが2つ。まだ飲むつもりだろうか。
「フラン、もうすこし付き合わないか」
フランの前にグラスが置かれ、ワインが注がれる。
「このワインはな、去年穫れたブドウで造ったものなんだ。ここ数年でいちばんの出来だと思っている」
そう言われてグラスに口をつけると、複雑な香りと味がしてとてもおいしかった。
「いいワインですね」フランは言った。「領民の努力がよく表れていると思います」
ゲルニシュトはうんうんと頷きながら、フランのグラスにワインを足していく。
「ところでだ、フラン」少しぎこちなく、ゲルニシュトが切り出す。「帰ってきたばかりで、すまないのだが」
「はい」
ゲルニシュトはためらっていたが、意を決したように口を開いた。
「実はだな、頼みたいことがあるんだが」
「……なんでしょう」
「……いや、その、麦農家とブドウ農家が、揉めていてだな……」
「……はい?」
ゲルニシュトの話はこうだった。
領内の村には、麦畑とブドウ畑の両方に水を引く用水路がある。
毎年、麦の刈り入れが終わると、この用水路の堰の補修と泥さらいを、村の共同作業として行う。
上流に位置する麦畑の農家は堰の補修を、泥がたまりやすい下流にいるブドウ畑の農家は泥さらいを行うのだ。
期間は10日ほどだが、今年はその人手の出し方を巡り、麦農家のまとめ役とブドウ農家のまとめ役が、口もきかないほど揉めているのだという。
「私が両人の間に入ると、『領主様はあちらびいきだ』と双方から言われてしまう。かといって放っておけば、来年の作付けに影響してしまうのでな……」
「それは、お父様が裁くことでは……」フランが口にすると、ゲルニシュトは胸を張って言った。
「裁いたら恨まれるではないか!」
威張るところではないでしょう。
フランがそう言おうとすると、後ろからミトスがそっと補足した。「お父様はね、もめごとが苦手なの」
彼女もグラスを持っていた。飲み足りないのだろうか。
「そんなときに士官候補生のお前が帰ってきた!」ゲルニシュトは天を仰いだ。「神のお導きだ!」
「元、です。元、士官候補生です……」
「元でも候補生だろう。そこでだフラン、なにかこう、うまく事を収める策はないだろうか」
根拠のない期待を、これほど堂々と向けられたのは初めてだった。
姉ではなく、「お前なら」と言われたのは、いつ以来だろう。
翌朝。フランは、水路のほとりに立っていた。
向かい合っているのは、ふたりの女性だった。
日に焼けた腕に鎌を握っているのは、麦農家のまとめ役のカルメ。
一方は、ブドウ農家のまとめ役のネイル。小柄だが、手には大きな剪定ばさみを持っていた。
ふたりの武器を見て、思わずフランは1歩さがった。ネイルが呆れたように「お嬢様、仕事道具だから」と言った。
「ブドウ畑は、去年から作付け面積を広げただろう」口火を切ったのは麦農家のカルメだった。「その分、水もたっぷり引いている。それなのに下流の掃除だけってどういうことだい」
「出せないものは出せないんだよ」ネイルが言い返す。「畑が広がったからこそ、収穫の時期に10日も人を取られたらブドウが腐っちまうんだ。あんたらは刈り入れが終わってるんだから、のんびり補修に出られるんじゃないのかい」
「のんびりだぁ!? 脱穀にも人が必要なんだよ!!」
「こっちは遅れたら実が割れるんだよ!」
一触即発。このままでは鎌とはさみの決闘が始まってしまう。
「ちょっとやめて!!」フランは両手を広げて割って入った。膝がガクガク震えている。「ふたりとも、ちょっと待ってください!」
フランはとっさに思いついた案を話した。
「ええと。じゃあ、こうしましょう! 麦畑とブドウ畑で、日数も人数も、半分ずつ出し合う! これでどちらも公平です……よね?」
しばしの沈黙。
そして、ふたりが同時に、フランをにらんだ。
「半分?」カルメが鼻で笑った。「畑が広がった分、堰の補修にもブドウ畑が供出するのが筋だろう」
「半分なんて」ネイルも嘲笑った。「ブドウの収穫現場を見たことあるのかい、お嬢様」
さっきまでまったく意見の合わなかったふたりが、はじめて深々とうなずきあった。
「まったく、領主様の娘さんは現場を知らないね」
「ああ、知らないね」
フランは言い返す言葉もなく、じりじりと後ずさり——すると、すっと地面を踏みはずした。
「『あ』」
どぼんという音とともに、フランは用水路に真っ逆さまに落ちてしまった。
ひっくり返ったフランを、カルメとネイルが左右から鷲掴みにして引き上げる。
「ああもう! 脚を持つんだよ、そっち!」
「持ってるってば! あんたこそ腰持って!」
見事な連携だった。
引き上げられて毛布にくるまれたフランは、岸に座りながらぼんやりと思った。
この二人、息は合うんじゃないのか。
* * *
その夜。泥を落としてベッドに入ってから、フランは考えた。
両方の畑で折半し合うのはいい案だと思った。
誰も損をしないが、誰も得をしない。いわゆる公平なのだと。
でも、麦農家にとっての5日と、ブドウ農家にとっての5日は同じではない。
刈り入れの終わった畑と、収穫時期の畑。
本質をなにひとつ見ていなかった。それだけではない。なにも知らなかったのだ。
フランは、がばっと起き上がった。ランプをつけ、鞄の底から士官学校のノートを引っぱり出す。
願書が一緒に出てきたので、見なかったことにしてもう一度戻した。
「……もう1回、考えてみよう」
誰に言うでもなく呟いた。
まずは双方の意見を聞くことから。できることから始めようと思った。
翌朝。水路のほとりに、カルメとネイルを呼び出した。
ふたりとも言葉にこそ出さないが、あからさまに警戒していた。
「おふたりの話を、最初から聞かせてください」フランは頭を下げた。「おひとりずつ順番に。ご迷惑でなければ、その、それぞれのおうちで」
「……私らの家で?」
カルメが眉をひそめた。
「はい」
「あんた、ほんとに最初から聞く気かい?」
「もちろんです。いや、聞きたいのです。今度はしっかりと」
カルメとネイルは顔を見合わせた。
それから肩をすくめて、ほとんど同時に言った。
「『へえ、いい度胸じゃないか』」




