第9話
佐藤さんとの面談を終え、オフィスを出て夜の帳が下がる頃には、空はインクを溶かしたような深い碧色に染まっていた。天王洲アイルの運河沿いを一人歩く。ライトアップされた赤レンガ倉庫跡が、虚ろな俺の心を映すようにオレンジ色に浮かび上がっている。
今日の出来事を頭の中で何度も反芻する。か細い声で理由も分からぬまま、ある日突然、周りの空気が変わったと訴えた畠中さん。罪悪感に震えながら見て見ぬふりをするしかできない苦しみを告白した遠野さん。そして、今日会った、佐藤。
怒りを隠そうともせず、被害者であるはずの畠中さんを悪質な怠慢な社員だと罵った、あの冷たい目。具体的な社名まで出して
――イノベート・フォワード・アカデミー。
しかし、ただの言い訳や話を逸らすための煙幕にしては具体的すぎる。まるで、誰かに聞かせるためのセリフのように用意周到な響きがあった。
その考えに没頭していた、その時。ふと、足が止まった。
まさか。頭の片隅で無視していた違和感が警鐘を鳴らす。そうだ、彼女は〝話を逸らす〟ためにあの名を口にしたのではない。あれは告発を未然に潰すための「先制攻撃」だったのではないか。
畠中さんはその会社の存在に――佐藤が画策する不正の証拠を偶然にも掴んでしまったと考えたらどうだ。
だから、彼女はあれほど怯えていた。それを察した佐藤が、畠中さんが誰かに告発するより先に、自らその名を口にしたとは考えられないか。「畠中こそが不正の犯人だ」という、捻じれた筋書きを俺に植え付けるために。
被害者が口を開く前に加害者が先回りして、被害者の証言の信憑性を徹底的に破壊する。だとしたら、これはただの論点のすり替えじゃない。もっと悪質で計算高い、精神を傷つける手口だ。想像上の彼女が描いたであろうその狡猾なシナリオに背筋が凍る思いがした。
運河の水面に映る高層ビルの光が、まるで俺を嘲笑うかのように歪んで揺れた。




