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第8話

約束の時間きっかりにウェルネススペースのドアが開いた。入ってきた女性を見て、俺は一瞬、息を呑んだ。そこに立っていたのは、俺が想像していたような神経質でヒステリックな人物ではなかった。寸分の隙もなく着こなされたチャコールグレーのパンツスーツ。鋭い知性を感じさせるフレームの細い眼鏡。背筋は真っ直ぐに伸び、その立ち姿は感情という脆弱性を排した論理の鎧をまとい、これから戦場に赴く兵士のようだった。彼女は佐藤と名乗った。

俺が促す前に、彼女は指定された椅子に深く腰掛けまっすぐに俺を見据えてきた。その目に畠中さんのような怯えや、遠野さんのような罪悪感の色は一切ない。あるのは、理不尽な状況に対する苛立ちと氷のような怒りだけだった。


「本日はお時間いただきありがとうございます。まず、今回の面談は人事部からの業務勧告に基づくものであることをご説明します。そのため通常のカウンセリングと異なり――」


「正直、なぜ私がこのような場所に呼ばれなければならないのか、全く理解できません」


 俺の説明を、彼女は遮った。


「ここは誰が悪いかを判断する場所ではありません。ただ関係者の皆さんが思ったことを自由にお話しいただく場です」


「そうですか」


 佐藤は短く応じ、眼鏡の奥の瞳で俺を値踏みするように見た。


「では、手短にお願いします。月末の締めが近いので」


 その声は低く、落ち着いていた。だが、言葉の端々に抑えきれない棘が隠されている。


「承知しています。今回の申し立てについて、佐藤さんの視点からお話しいただけると助かります」


 俺はいつものように扉を開けるための鍵を差し出した。だが、彼女はその鍵を受け取らなかった。


「私の視点、ですか」


 彼女は理解不能な言語を聞いたかのように、かすかに眉根を寄せた。


「私の視点など一つしかありません。部下である畠中美恵の業務遂行能力に、深刻な問題がある。私は上長としてそれを指摘し、改善を促してきた。ただそれだけです。これをハラスメントと呼ぶのであれば、この会社の管理職は全員、職務放棄を推奨されていることになりますね」


 来た。予想通りの反応だ。俺の脳が彼女の言葉を冷静に分析し、診断を下す。典型的な攻撃性と責任転嫁。彼女は自らの正しさが他者に与える感情的な影響について、全く意に介する様子がない。俺は完璧な診断を下したという確信を胸に、穏やかな口調を崩さずに返した。


「業務遂行能力に問題があった、と」


俺は彼女の言葉を繰り返した。


「具体的にどのようなことだったか、教えていただけますか?」


 この質問が堰を切った。


「どこから話しましょうか」


佐藤は待ってましたとばかりに、椅子の背にもたれていた体を起こした。


「まず、基本的なレポートの提出遅延。これは常態化していました。次に、共有フォルダへのデータ入力ミス。些細なことだと思われるかもしれませんが、経理において些細なミスは存在しません。一つの数字の間違いが最終的にどれだけの時間とリソースの無駄につながるか、ご理解いただけますか?」


 よくあるパターンだ。「些細な、誰にでもあるようなミスを執拗に責め立てる」という遠藤さんの証言そのものだ。彼女は自らのいじめを、業務指導の範囲内だったと正当化しようとしている。


「他にもまだあります。彼女が担当していた業者への支払い処理。ここでも複数の手順違反が見られました。社内規定で定められたダブルチェックのプロセスを無視し、承認申請を上げてくる。私がそれを差し戻し、やり直すように指導すると彼女はそれを『細かい指摘』と受けとるようでした」


 俺は黙って聞いていた。彼女の言葉一つ一つを頭の中でフィルタリングしていく。

彼女の言い分は、どれも一見すると正論だ。だが、彼女が並べ立てる「罪状」は、どれもこれも、完璧ではない人間なら誰しもが一度や二度は犯す類のミスに聞こえた。それを一つ残らず記憶し、カタログ化している。

畠中さんが語っていた「会議で発言すれば鼻で笑われる」「いつの間にか手柄を横取りされる」という証拠に残らない陰湿な攻撃。その背景にはこうした完璧主義を盾にした、執拗な人格攻撃があったに違いない。


「これがパワハラですか? どうせ畠中さんが通報したんでしょう」


 佐藤さんは吐き捨てるように言った。


「……なるほど。佐藤さんとしては管理職としての責任を果たしていた、という認識なのですね」


俺は、あくまで客観的な相槌を打つ。彼女の言い分に「同調」も「共感」も示せないが、まずは「傾聴」するのが鉄則だ。


「認識、ではありません。事実です」


 彼女は即座に訂正した。


「失礼を承知でうかがいます。社内で活用している『ハートポイント』制度のことについてです」


 彼女の無言の苛立ちを感じながらも、俺は構わずそのまま続ける。


「経理部では、実際どのように活用されているか教えていただけますか?」


「……ハートポイント? あれは参加必須じゃないはずです。はっきり言って私は、そんな表面的なもので職場の空気を取り繕うつもりはありません。真の信頼や評価は、実直な実務で築くものだと考えています。何かおかしいですか?」


 使用してない、と。この件に関しては関与していないというのか? 言ってることはもっともらしい。だが、あの制度の目的は単なる数字のやり取りではない。社員たちの〝声〟を可視化することにある。その頑なな姿勢が、孤立や不安を見逃し、助長していることに彼女は気づいていないのか。

 俺が返す言葉を探していた、その時、彼女の纏う空気がわずかに変わった。まるで、本題に入る前の序論を終えたかのように。


「ですが、それらはまだ許容範囲でした。本当に問題なのはそこではありません」


 彼女は一度言葉を切り、俺の目をまっすぐ見た。


「『イノベート・フォワード・アカデミー』からの請求書です。これが全ての元凶です」


 その固有名詞に俺の意識が集中する。


「あの会社の請求処理がとにかく滅茶苦茶なんです。承認ルートは守られていないし、本来必要なはずの添付書類も不足している。何度、指摘しても社内規定が守られない」


 その言葉の端々から専門家としての強い不満と、自らの聖域が汚されているかのような苛立ちが滲みでている。

彼女は部外者に言っても無駄だと言わんばかりに具体的な説明を避け、論理の皮を被って畠中さんの仕事の杜撰さを捲し立てる。彼女の「能力」、「人格」、全てを否定するように。

 俺は、ゆっくり息を吸い込んだ。もう十分に聞いた。これ以上、彼女の防壁のような独白に付き合う必要はない。


「佐藤さん」


 俺はできる限り冷静な声で、彼女の言葉を遮った。


「その件が、あなたに多大なストレスを与えていることは、よく分かりました。ですが、あなたの言動や行動によって、畠中さんが精神的に深く傷ついている、という訴えが社内であがったのも事実です。その点については、どうお考え……」


 その瞬間だった。彼女の顔から表情が消えた。それまでの合理的、知的といったものが全て剥がれ落ち、代わりに、純粋な底知れない困惑が浮かび上がった。


「……どう考える?」


 彼女の声は震えていた。


「私の、話を聞いていましたか?」


 彼女は椅子から身を乗り出すようにして俺を睨みつけた。その瞳にはもはや侮辱の色はない。あるのは、ただ、信じられないという絶望だけだった。


「ここにはパターンがあると言っているんです! ルールから逸脱した金の流れがある! それを指摘している! その結果がこれですか? 調査委員会ではなく、カウンセラーの前に座らされる私の気持ちを考えてください!」


 激昂。制御を失った剥きだしの怒り。

 俺の診断は、完了した。


「本日は、貴重なお話をありがとうございました」


 俺は温度のない、完璧にプロフェッショナルな声で言った。


「いただいたお話は、今後の参考にさせていただきます」


 その瞬間、彼女の表情から感情が抜け落ちた。まるで、分かり合えない相手と話すことを、完全に諦めたかのように。


「……もう、いいです。何を言っても無駄なようですから」


 彼女は立ち上がり、一瞥もくれずに部屋を出ていった。ドアが閉まる音がやけに響く。

 残された部屋で俺は固く目を閉じた。今、目の前にいたのは、反省の色一つ見せない紛れもない加害者だった。彼女の言葉の節々、その態度、その怒り。全てが畠中さんと遠野さんの証言を裏付けていた。彼女は自らのいじめ行為を正当化するため、全く別の問題を持ち出して論点をすり替えようとしている。「知的化」と呼ばれる典型的な防衛機制。その不寛容な正当化の一つひとつが、畠中さんの部署での孤立をありありと想像させた。


 これで全てが繋がった。

 俺のやるべきことは一つだ。

 あの冷たい目をした加害者から無力な被害者を守ること。俺の中でその決意は、もはや疑う余地のない「信念」へと変わっていった。


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