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第7話

夕暮れの湿った空気が、足取りを重くさせる。舗道を踏む靴音が、天王洲アイルの喧騒に虚しく吸い込まれていく。古びた倉庫街を改装した洒落た店の明かりが、濡れたアスファルトに滲んでいた。遠くの高架を走るモノレールの音が、空虚に響く。さっきまでいたあの煌びやかなオフィスビルも、今の俺には無性に薄っぺらく見えた。

 遠野の、罪悪感に震える声が耳の奥で何度も反響する。


「見て見ぬふりをするしかなくて……それが、すごく、苦しくて」


 意図的に情報を外され、会議で発言すれば鼻で笑われる。そして、周囲は見て見ぬふりをしている――。

 ふつふつと腹の底から何かがせり上がってくる。それはいつもの無力感ではない。

明確な、熱を持った怒りだった。

 俺はEAPとして、ただ話を聞くだけの存在だ。中立であること。守秘義務を守ること。それが役割だ。だが、本当にそれでいいのか? 

 目の前で、一人の人間が、かつての俺と同じように心を殺されている。「中立」という名の安全地帯に隠れ、たとえ本人の意思だとしても、当たり障りのない言葉を並べて終わらせることが、正しいと言えるのか?

 違う。

 強く首を振った。背中を撫でる夜風が、汗ばんだ肌にひやりと触れる。上司にも、同僚にも、会社にも言えず、藁にもすがる思いで彼女は相談に来たのだ。絶望させてはならない。

 無意識に握りしめた拳が、熱を帯びていた。それは、これまで感じたことのないほど重く、そして業火のように熱い使命感だった。

 彼女を――放ってはおけない。

 その決意を胸に、俺は自宅への道を歩き出した。


 週明けの朝、俺はウェルネススペースで人事部の担当者と向き合っていた。週末に固めた決意を胸の奥深くに秘め、平静という仮面を被って定例の報告をこなす。経理部の件をどう切り出すか、頭の中で何度も言葉を組み立てては、崩していた。畠中さんと遠野さんの匿名性を守りながら、それでいて看過できない問題だと人事に認識させる。そのための最適な言葉を探していた。


「――以上です」


 俺が報告を締め、いよいよ本題に入ろうと息を吸い込んだ、その瞬間だった。


「仁木さん」


 俺が口を開くより先に、人事担当者が重い口調で言った。

「実は、ご相談したい案件がありまして。金曜の夜にコンプライアンス窓口に匿名の通報が入ったんです」

 心臓がどきりと音を立てた。


「経理部の佐藤という社員についてです、部下の畠中美恵さんに対するパワーハラスメントの疑いがあると」


 人事担当者の口から告げられた名前に、俺は息を呑んだ。事態は、予想を遥に超える速度で、しかし俺が望んだ方角へと動いていた。

 脳裏にあの気弱な男性社員の怯えた目が浮かぶ。俺の言葉が彼の良心に火をつけたのか。いや、彼だけじゃないかもしれない。声を上げられずにいた他の誰かかもしれない。一つだけ確かなことは彼女は一人ではなかった、ということだ。


「通報には会議での発言を笑いものにする、業務情報を意図的に与えない、といった具体的な内容が複数挙げられていました。これは看過できないと判断し、会社としても正式に調査を開始するつもりです。つきましては仁木さん、まず当事者双方から話を聞いていただきたい。我々人事部が一方的に事実関係の『調査』を始める前に、まず専門家である仁木さんに、佐藤さんの精神的な状態をアセスメントしていただきたいのです。冷静に話ができる状態か、過度な負担がかかってないか。その見立てが欲しい」


 なるほど。これがこの会社のやり方か。まず「ケア」という体裁を取り、相手の抵抗感を和らげ、組織としてのリスクを管理する。


「もちろん、これは業務勧告としてのカウンセリングとなりますので、守秘義務の範囲も通常とは異なります。その点は面談の冒頭で、佐藤さん本人にしっかりと説明し同意を得た上で進めてください。我々への報告は、あくまで本人の精神的安定度や今後の調査への協力体制といった、概観の共有で結構ですから」


 会社の慎重な手順が、皮肉にも俺の「使命」に追い風を吹かせていた。これは、もはや単なるカウンセリングではない。会社から公式に与えられた、状況に介入するための「大義名分」なのだ。

 胸の奥に自らの決意を肯定されたような、熱いものがこみ上げた。そうだ、間違ってなかった。これは組織が動くべき正当な問題なのだ。沈黙を破り、リスクを冒して声を上げた誰かの勇気が事態を動かした。


「分かりました。すぐに対応します」


 俺は力強く頷いた。待ち構えていた。この面談のために俺はここにいるのだと。

 加害者とされる佐藤の顔を想像しながら、俺は心の中で「カウンセリング」に向けた準備を始めていた。

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