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第6話

 畠中さんのカウンセリングから、三日が過ぎた。

目の前では、中年社員が〝口先だけのダイバーシティのせいで、自分が割を食ってる〟と何度も同じ不満を繰り返している。それを上の空で聞きながら、俺の頭には三日前の光景がよぎる。彼女の助けを求めるか細い声と絶望に揺れる瞳が、脳裏に焼き付いて離れない。

 俺は、あの日以来、ずっと考えていた。俺にできることは何なのか。本当にもう何もないのか。

そんな考えに沈んでいた日の午後、人事部の担当者から内線があった。


「仁木さん、お疲れ様です。先ほど、匿名のカウンセリング依頼が入りまして、経理部の方のようなんですが、本日中になんとか、と……」


 経理部。その言葉に、心臓が大きく脈打った。


「分かりました。すぐに対応します。最終枠で調整してください」


 逸る気持ちを抑え、俺は受話器を置いた。

 

 約束の時間、ウェルネススペースのドアを開けて入ってきたのは、まだ三十代前半ほどの、ひょろりとした体格の男性社員だった。大きな眼鏡の奥で絶えず何かに怯えるように揺れる目と、猫背気味の姿勢が、彼の気弱な性格を物語っていた。


「あ、あの遠野(とおの)です……よろしくお願いします」


 彼は深々と頭を下げると、おずおずと椅子に腰掛けた。


「こちらこそ。本日はどういったご相談でしょうか。改めてお伝えしますが、ここでの話があなたの許可なく外部に漏れることはありません。安心してお話ください」


 俺がそう切り出すと、彼は一度、何かを確かめるようにドアの方を振り返り、それから意を決したように口を開いた。


「……絶対に、匿名でお願いできますか。僕がここに来たことも、話した内容も、絶対に……」


「もちろんです。お約束します」


 俺の言葉に、彼はわずかに安堵の表情を浮かべた。そして、絞り出すような、ほとんど囁きに近い声で、本題を切り出した。


「経理部の……部署の雰囲気のことで、お話がしたくて……」


「部署の雰囲気、ですか」


「はい……。すごく、空気が悪くて……。特に、ある管理職が、特定の人を……その、標的にしているようなとこがあって……」


 彼の言葉は慎重で、決して個人名を口にしようとはしなかった。だが、その躊躇いが、かえって事態の深刻さを物語っている。俺の脳裏に、数日前の彼女の面影がはっきりと浮かび上がった。


「見て見ぬふりをするしかなくて……それが、すごく、苦しくて」


 彼の声は罪悪感に濡れて震えていた。その湿った告白を、俺は渇いた喉で待ち望んでいたことに気づいた。


「具体的に、どのような状況なのか教えていただけますか?」


 俺は、カウンセラーとしての冷静さを装いながら、核心に迫った。


「はい……。例えば、その……標的にされている方は、本当に真面目な人なんです。でも、本当に些細な、誰にでもあるようなミスを、部署の全員に聞こえるような大きな声で、執拗に責め立てたり……。会議でも、わざと発言させなかったりとか……、周りの人たちも何も言えなくて。話しかけると凄い顔で睨まれるんです。あの空気は、本当に、針の筵のようです」


 その内容は、先日畠中さんから聞いた話と、パズルのピースがはまるように一致した。ほぼ間違いなく畠中さんの話だろう。彼女の主観的な訴えに、第三者からの客観的な証言という裏付けが加わった瞬間だった。


「それと……ハートポイントってご存知ですか?」


 遠野さんが静かに話を切り替えた。俺は頷きながら答える。


「はい。社員同士が感謝や賞賛をポイントで送り合う制度ですよね。私は、人事から、立場上アプリを入れないように言われていますが……それが何か?」


 彼は少し俯き、言葉を選ぶように続けた。


「実は、そのハートポイントが、いじめの道具になっているように思うんです」


 俺は思わず眉をひそめた。遠野さんは深く息をつく。


「その方が、どんなに頑張っても誰もポイントを送らないんです。周りは盛んに送り合っているのに。全員に送られるような場面でも、その方の名前だけがタイムラインに上がってこない」


「それは単なる無視以上の、意図的な排除ですね」


「そうです。一度、書類ミスを見つけてくれた時に、その方にお礼がしたくてポイントを送ろうとしたんです。そしたら、先輩の女性社員から『上司が見てるからやめた方がいい』って小声で忠告されて……」


肩を落とす遠野さんを見て、俺はある種の皮肉を感じずにはいられなかった。本来、交流を促進し、感謝の輪を広げるはずの制度が、こんなにも歪んだ形で、逆に人間の孤立感を〝可視化〟してしまうとは。


「僕……何もできないんです。それが、すごく、苦しくて……。いつも一人で、誰にも相談できずにいるように見えました。だから、せめて誰かがこの状況を知っているということだけでも、伝えたくて……。本当に、すみません。僕にもっと勇気があれば……」


 彼はそう言うと、眼鏡の奥の瞳を潤ませ、深く頭を下げた。彼の証言は、俺の中で燻っていた無力感という湿った薪に静かに、しかし確実な火を灯した。


「話してくださって、ありがとうございます。勇気を出してここに来てくれたこと、それ自体がとても大きな一歩です。あなたのような方がいるという事実だけでも、標的にされている方にとっては救いになるかもしれません」


 俺の言葉に、彼の表情は少しだけ和らいだ。


「僕はどうしたら……いいでしょうか」


「難しい問題ですね。例えば、突然あなたが接し方を変えることで、周りから〝かわいそうな人〟と見なされていると感じ、ご本人がさらに劣等感を抱いてしまう可能性も考えられます」


 孤立無援で、俯くしかできない彼女の姿。それを取り囲む、冷たい沈黙。そんな光景を想像して、また一瞬、過去がフラッシュバックする。「空っぽの弁当箱」。周りの優しさが、かえって自分の惨めさを際立たせるあの痛み。

 俺は、その記憶を振り払うように、顔を横に振り次のステップを提示する。


「一つ、提案があります。あなたが今日話してくれた内容は、ハラスメントの重要な証言になり得ます。あなたが目撃者として、人事部に正式に報告するという選択肢もありますが、どう考えますか?」


 彼の顔から、さっと血の気が引いた。


「僕が、ですか……? でも、そんなことしたら、今度は僕が……。それに、僕にはそんな勇気は……」


まただ。また、この言葉だ。いや、彼を責められない。俺も彼も「動けない」、「動かない」の違いはあれど、傍観者という点では何も変わらない。


「もちろん、強制ではありません。ですが、状況を変えるには、誰かがリスクを負う必要がある」


 目の前の男は明らかに困惑している。彼の顔を見て、、自分がカウンセラーの本分である「傾聴」から逸脱していることに気づいた。だが、もう止まれなかった。


「あなたでなくても、標的にされているご本人が動くという選択肢もあります。ただ、今の彼女は精神的にかなり追い詰められているかもしれない。絶望していると言ってもいい。そんな彼女に、一人で戦えと言うのは酷な話です」


 俺は、誤って〝彼女〟と呼んでしまっていたが気にも留めなかった。

 俺は、彼に判断を委ねた。彼がここで勇気を出すか、それとも沈黙を選ぶか。彼はしばらく俯いて何かを考えていたが、やがて力なく首を振った。


「……すみません。僕には、できません」


 彼は何度も「ありがとうございます」と繰り返し、重い足取りで部屋を出ていった。


 一人残された部屋で、俺は固く拳を握りしめていた。

 被害を訴える当事者も、罪悪感を抱く傍観者も、誰もがリスクを恐れて動こうとしない。そして、俺もまた、「守秘義務」という盾の内側で、リスクを回避しているだけではないのか。本人の承諾さえあれば話は別だが……。俺にできるのは、ただ話を聞くことだけ。プロとしてのその一線は、越えてはならない。しかし、心の天秤は、明らかに傾き始めていた。無力感に苛まれながらも、その奥底で、これまで感じたことのない強い感情が静かに、しかし確実に育っているのを俺は自覚していた。

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