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第5話


 その日の夜、家に帰ると、リビングの明かりが点いていた。珍しく妻が先に帰っている。


「ただいま」


 ソファに座っていた妻・夕梨花が、パソコンの画面から顔を上げて「ん、おかえり」と手を振った。

彼女の指は、キーボードを忙しなく叩き続けている。机の上には資料が散乱し、コンビニのサンドイッチの袋が転がっていた。


「今日は早いんだな」


「急遽リスケ。明日の朝イチで入れなきゃいけない原稿があって。マジで終わらない」


夕梨花は画面に視線を固定したまま、早口で言った。その横顔には、俺の知らないジャーナリストとしての険しさが浮かんでいる。

俺はスーツを脱ぎ、ケージからフゥを出した。ニャアと鳴いて、すぐに俺の足元に体を擦り付けてる。その温もりに少しだけ救われる思いがした。

夕食は、冷蔵庫にあったパスタをレンジで温めて済ませた。一人で食べる味気ない食事にも、もう慣れた。

食後、俺はソファの夕梨花から一番遠い場所に腰を下ろした。


「今日、仕事でさ」


 何か話さなければ。この重苦しい沈黙を、どうにかして壊さなければ。そう思って口を開いたが、夕梨花のキーボードを叩く音は止まらない。

「ごっめーん、今ちょっと集中させて」

ぴしゃり、と遮られた言葉が、冷たく床に落ちる。キーボードの音だけが響く。数秒後、その音がふと止まった。夕梨花は画面を見たまま、独り言のように言った。


「……大事な話?」


 その問いに、俺はすぐに答えられなかった。大事な話、と言っていいのか。ただの愚痴かもしれない。守秘義務もある。そう躊躇していると、彼女は小さく息を吐いて、再びキーボードを叩き始めた。

――彼女が悪いわけではない。仕事に追われているのだ。分かっている。だが、その突き放すような空気が、今日一日の出来事でささくれだった心を容赦なく抉った。

ふと、父のことを思い出す。

『お前の人生なんだから好きにしろ』

 そう言って俺を突き放した父。家族より仕事を選び、広大な組織の中に自分の居場所を求めた男。夕梨花もまた、俺のいるこの部屋とは違う世界に、自分の居場所を持っている。   

 俺の居場所は、ウェルネススペースか。自嘲が漏れた。

 誰かの話を一方的に聞くだけの存在。問題の当事者にはなれない。では、俺の話は誰が聞く?

 家に帰っても、妻は自分の世界に没頭している。自立しているから、手がかからない猫がいい。そう言ったのは、夕梨花だったか。俺も、彼女にとってはその程度の存在なのかもしれない。手がかからず、静かで、そこにいるだけの。


「ちょっと、外でてくる」


 俺は立ち上がり、ほとんど独り言のように呟いた。夕梨花からの返事はなかった。

 ベランダに出て、安物のライターで火をつける。妻に隠れて吸う、一日一本のタバコ。

 白く吐きだした煙が、東京の夜景に溶けていく。眼下に広がる無数の光は、それぞれが誰かの暮らしの灯りだ。家族の団欒や、恋人たちの囁き。そのどれもが、今の俺にはひどく遠いものに思えた。頭の中で、畠中さんの絶望に満ちた顔が浮かんで消える。

足元で、フゥが静かに体を摺り寄せてくる。俺はタバコを灰皿に押し付けると、その場にしゃがみこみ、フゥの柔らかい毛並みに顔を埋めた。この温もりだけが、今の俺の、唯一の救いだった。


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