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第4話

朝の光が、一本の鋭い線となって部屋に差し込んでいた。その光の筋が、空気中に舞う微細な埃をきらきらと照らし出す。部屋はひんやりとした静寂に満ちていた。俺はスーツに着替える手を止め、息を殺してベッドに視線を送った。布団の穏やかな膨らみの中心で、妻・夕梨花が眠っている。昨夜、俺が寝静まった後に帰宅したのだろう。薄暗い部屋の中で、彼女の肩が静かに上下しているのを見て、心の中で小さく息を吐いた。


「……いってきます」


 声を潜めて告げたが、返事はなかった。けれど、その安心感だけで十分だった。

 通勤電車に揺られながら、今日のカウンセリング予約や人事からの依頼事項をスマホで確認する。

天王州アイルのオフィスに着けば、いつも通りの一日が始まる。

ウェルネススペースで人事と打ち合わせをし、午前中に二件のカウンセリングをこなした。若手社員の不眠相談、パワハラ認定された管理職への事後フォロー。表面上は冷静に対応しながらも、ひとつひとつの問題の重さに神経をすり減らす。

 昼食は、社員食堂の隅で、一人、味気ないサンドイッチを五分で胃に流し込んだ。周りでは、社員証をぶらさげたスーツ姿の男女が楽しげに談笑している。

午後は来週予定されている、新入社員向けのメンタルヘルス研修の資料を作り込んだ。「ストレスとの上手な付き合い方」「セルフケアの重要性」。そんな空虚な言葉を、パワーポイントのスライドに無心で打ち込んでいった。

午後はさらに一件のカウンセリングに臨んだ。今日の最後のクライアントは、経理部の畠中美恵〔はたなかみえ〕という女性だった。

細身で、控えめな印象を与える彼女は、席に着くと、まるで悪いことをしているかのように、「お忙しいところすみません」と何度も繰り返した。


「いえ、そのための時間ですから。どんなことでも、お話しください」


 俺がそう促すと、彼女は俯いたまま、膝の上のハンカチを、指先が白くなるほど強く握りしめた。


「あの……どこから話せばいいのか……大したことじゃないのかもしれないんですけど」


 声が震えている。昨日来た若手社員とは対照的だ。彼は苛立ちを隠さなかったが、彼女は自分の感情を押し殺そうとしている。その押し殺された感情の圧力が、彼女のか細い体を内側から破壊しようとしているのが痛いほど伝わってきた。


「どんな些細なことでも構いませんよ」


 俺はできるだけ穏やかな声で言った。やがて彼女は、ぽつり、ぽつりと話し始めた。同じ部署の女性管理職からの、執拗な嫌がらせについてだった。

 会議で発言すれば鼻で笑われる。共有されるべき情報から意図的に外される。自分が担当した仕事の手柄を、いつの間にかその女性のものにされている。

 陰湿で、巧妙で、証拠が残らないタイプの、精神的な攻撃。

 話の途中で、数秒の重い沈黙が流れた。俺は喉の渇きを覚え、机の上の水をひと口飲んだ。すると彼女も、手元の紙コップをぎこちなく持ち上げ、同じように口をつけた。


「周りの人たちは……気づいているんでしょうか?」


「……見て見ぬふり、なんだと思います」


 『見て見ぬふり』。その言葉が、古傷に突き刺さる硝子の破片のように、俺の胸を抉った。


「その管理職は、仕事もできますし、経理の専門家なので……誰も逆らえないんです。次第に周りの人にも避けられ、事務連絡以外では話さなくなりました。もう、私が我慢すれば丸く収まるのかなって……」


彼女の声を聞きながら、俺は胸の奥が急速に冷えていくのを感じた。「見て見ぬふり」。その一言が、俺の記憶の蓋をこじ開けようとする。集団の中で、たった一人疎外される

あの感覚。


「……それは、お辛いですね。職場で孤立していると感じるのは、本当に苦しいことだと思います」


 俺は、かろうじて専門家としての仮面を保ちながら、言葉を絞り出した。感情が滲んでいたかもしれない。

彼女は俯いたまま、それまで固く握りしめていたハンカチを、そっと膝の上に広げた。まるで、心を少しだけ開くことを許したかのように。

俺は少し前のめりになって聞いた。


「差し支えなければ、その女性との関係が、いつ頃から、どのように変わっていったか、もう少し詳しく教えていただけますか?」


 彼女の視線が宙を泳ぎ、微かに眉をひそめる。俺が固唾を飲んで見守る中、数秒の息苦しい沈黙が流れた。


「……すみません。……分かりません。本当に、何も……。ただ、ある日を境に、全て変わってしまった、としか……。私、何かしてしまったんでしょうか……」


 彼女は、全ての悲しさを一人で背負い込むように、そのか細い背中を丸めた。声が絶望に震えている。 


「これって、何か……解決、するんでしょうか」


 昨日、あの若手社員から投げかけられたのと同じ問い。だが、その響きは全く違っていた。彼の言葉には解決策を求める強さがあったが、彼女の言葉には、希望の見えない悲痛な弱々しさがあった。

「問題を解決するために、いくつか方法は考えられます。例えば、やり取りを記録に残しておくこと。それから、信頼できる上司や人事に相談するという選択肢もありますが、いかがですか?」

 俺はありきたりな正論を口にした。だが、それが何の慰めにもならないことは、自分が一番よく分かっていた。記録を取る負担、相談した後の報復のリスク。その全てを彼女は一人で背負うことになる。


「……そう、ですね……。あまり、大事にはしたくないので……」


 彼女は力なく微笑むと「話を聞いていただいて、少しすっきりしました」と言い、深々と頭を下げて部屋を出ていった。

 まただ。俺は無力感に襲われながら、固く目を閉じた。俺にできるのは、歪みからこぼれ落ちた人の話を、こうして聞くことだけ。傷口に絆創膏を貼るような、その場しのぎの対症療法。根本的な治療は、俺の仕事の範囲外だ。

だが――本当にそうなのか? 彼女を苦しめているのは、一人の人間からの明確な悪意だ。そして、その悪意を助長しているのは、「見て見ぬふり」をする周りの人間たちの沈黙だ。ならば。俺がその沈黙を破る最初の人間になればいいのではないか……。

空になった椅子を、じっと見つめた、そこにはまだ、彼女の絶望の気配が、生々しく残っているようだった。

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