第3話
家に帰る。十階建て2LDKの社宅は、今日もまた、俺の帰りを静寂で出迎えた。エレベーターを降りた瞬間、廊下の奥から子どもの甲高い声が響いた。無邪気なその声が遠ざかるほど、自分の部屋の静けさが際立つ。
ガチャリと鍵を回し、真っ暗な玄関に足を踏み入れる。手探りで壁のスイッチを押すと、蛍光灯がジジ、と不機嫌そうな音を立て、冷え切った部屋を不自然なほど明るく照らした。
靴を脱ぐ途中、視界の端に、脱ぎっぱなしの妻のビジネスシューズが転がっているのが入った。今朝も、出社ぎりぎりまで慌ただしかったのだろう。
リビングに入り、テーブルにスマホを置くと同時に、通知ランプが点滅した。妻からのメッセージだ。
「部署の打ち上げ! 遅くなりますー」
絵文字もなければ、句読点すらない、あまりに短いその一文が、やけに冷たく胸に落ちる。スマホをソファに投げ出し、スーツを脱いで着替えた。
ケージから愛猫のフゥを出す。足元にすり寄ってくる小さな温もりに、わずかに心が和らぐ。餌皿にカリカリを入れ、スティック状のおやつを一本取りだした。妻からは「体に悪いから控えて」と言われているが、包装を破り目の前に差し出す。反発ではない。ただ、妻がいつあげたかなど、俺は知らない。
フゥの柔らかい毛並みを撫でる。ゴロゴロと喉を鳴らす音が、冷え切った部屋の静けさを埋めていく。その小さな音にすがるように耳を澄ませながら、俺は天井を見つめ、ただ一人、座り込んでいた。
部屋の壁紙が、ところどころ黄ばんでいる。妻に隠れて一日一本だけ吸うタバコのせいかもしれない。
この社宅に住み始めて、もう七年になる。妻の会社が借り上げている物件だ。月々数万円で、23区内に2LDK。条件だけ見れば破格だ。妻には感謝しなければならない。
妻との出会いは、社会に出て二年目の春だった。
同窓会で再会した高校時代の友人・剛が、東京に出てきていると聞き、飲みに行ったのがきっかけだ。剛は毎日のように接待や合コンに繰り出し、楽しげに遊び歩いていた。「お前はどうなんだ?」と問われ、「全然だよ」と答えると、彼はニヤリと笑った。
「紹介してやるよ。いい子だからさ、一度会ってみろよ。うまく言っといてやるから」
当時、俺は高校時代から付き合っていた彼女に振られたばかりだった。慣れない仕事に追われ、大都会・東京で自分の居場所を見失いかけていた。虚しさに押しつぶされそうになっていた俺は、その言葉に飛びついた。
表参道のイタリアンを予約した。これまで足を踏み入れたことすらない場所。それでもそうしたのは、剛が語る夕梨花〔ゆりか〕のプロフィールが、あまりに高嶺の花に思えたからだ。
国立大卒、大手マスコミの新聞記者。英語も堪能で、しかも美人。それに比べて俺は、中堅私大出身の中堅素材メーカー勤務。これまで学歴コンプレックスなど感じたことはなかったが、初めて自分とは違う階層の人間と会うのだと思うと、どう振る舞えばいいのか分からなかった。
約束の時間になっても夕梨花は現れなかった。スマホを何度も確認するが、連絡はない。店の中で妙に浮いた存在になった気がして、落ち着かずにいたとき、ようやく通知が届いた。
「ごめんなさい! 電車逆にのったうえ、寝過ごしました!」
結局、彼女が店に着いたのは約束の一時間後だった。息を切らして駆け込んでくるなり、深々と頭を下げた。
「ほんとごめん、ほんとにごめん! 奢ります!」
その必死な様子に、張りつめていた緊張が一気にほどけた。予約していたイタリアンはキャンセルし、近くのチェーンのお好み焼き屋に入った。
「表参道なんて来たことないから、道が全然わからなくて。東京って複雑すぎ」
申し訳なさそうに笑ったとき、店の照明に反射して艶やかな黒髪が揺れた。小柄で、澄んだ瞳が印象的だった。――やっぱりモテるんだろうな。単純にそう思った。
だが、話してみると意外なほど親しみやすかった。共通の好きなアニメや漫画の話題で盛り上がり、気がつけば店の片隅でずっと笑い合っていた。
付き合ったのは三回目に会ったとき。その日、俺は告白しようと決めていた。無理だろうと分かっていたが、それでも言わずにはいられなかった。臆病で受け身な俺がそんな気持ちになったのは、二回目のデートで、夕梨花がふと口にした言葉がきっかけだ。
「もしかして、輝くんって〝瞑想39〟さん?」
心臓が跳ねた。
当時、俺はブログを書いていた。鬱屈した日常や社会への不満、くだらない日々の観察――。照れくささを隠すために、皮肉を交えて面白おかしく書くのが、自分なりのスタンスだった。現実の自分とは違うキャラクターを演じる場所。一時期、本名で書いていたこともあったが、周りに違う自分を見られるのが怖くて、すぐに匿名に戻した。誰にも言っていなかった。
どうやら初対面のとき、俺が話したニッチなブロガーの話を覚えていて、検索したらしい。そこから俺のブログに巡り着いたという。
内心、冷や汗が出た。自分の内面を覗かれたような、強烈な羞恥心。しかも現実の自分とはキャラクターがまるで違う。引かれると思った。
「やっぱり! 私、あの文章すっごい好き。何回も笑ったよ」
その一言に、胸の奥が熱くなった。自分の内面を肯定されたのは、生まれて初めてだったかもしれない。
そこから五年の付き合いを経て、自然に結婚した。そして、結婚して七年――。
ふと気づくと、フゥが俺の太ももに擦り寄っていた。
時計は十一時を回っている。妻はまだ帰ってこない。連絡もない。
フゥは妻よりも俺に懐いている。餌をやるのも、トイレの掃除も俺だ。それに猫はゆっくりした人間を好むらしい。だったら俺だろう。そうやって、無条件に懐いてくれるのは、フゥくらいなものだった。
「犬より猫の方がいいんじゃない? 自立してるし、手がかからないって聞くし」
いつか妻がそう言っていたのを思い出す。
自立。手がかからない。その言葉が、今夜はやけに胸に刺さった。
妻は今、誰と、何をしているのだろうか。
ソファに沈み込み、俺はスマホの画面を見つめていた。そこに浮かぶ、たった一行の無機質なメッセージ。嫉妬ではない。そんな生々しい感情はとうに死んだ。ただ、俺の知らない彼女の世界を覗き見たいという、冷たく倒錯した好奇心だけが、死にきれずに燻っている。だから、見てしまうのだ。
リビングの隅で、デスクトップパソコンを開く。検索窓に、彼女の名前を打ち込んだ。
「仁木夕梨花」。
夫である俺が妻のSNSと繋がってすらいない。その事実が、二人の関係の象徴のように思えた。すぐに見つかった。Instagram、X。
インスタには、知らない彼女がいた。光と活気に満ちた世界。同僚と笑い合い、スクープ記事を手に誇らしげな横顔。アートの中に溶け込むような写真。どの写真にも、どのコメントにも、俺の影は一切ない。完璧な日常の中に、俺は存在しない。あの頃と同じように、ひとり寂しく空っぽの弁当箱を抱え、輪の外から彼らの幸せを見つめているだけだ。
Xには、俺の知らない論客としての彼女がいた。政治、社会、ジャーナリズム。専門用語を駆使した鋭い舌鋒がタイムラインを切り裂き、無数のフォロワーと丁々発止のやりとりを繰り広げている。それは、俺がかつて「瞑想39」として匿名でやろうとしていたことの完成形だった。
だが、今夜の「部署の打ち上げ」についての投稿は、どこにもなかった。それが何よりも残酷だった。そこに誰か男の影でもあれば、怒りという仮面で自分をごまかせたかもしれない。だが、彼女にとって今夜は、記録に残す価値すらない、どうでもいい出来事なのだ。
俺はパタンとパソコンを閉じた。暗転した画面に、一瞬だけ、青白い憔悴しきった俺自身の顔が、亡霊のように映り込んだ。それは、彼女の光に満ちた世界の残像の上に重ねられた、俺の孤独な現実の姿だった。
部屋の静寂が、耳に流れこんでくる。さっきよりも、ずっと重く、冷たい沈黙。結局、何も分からなかった。いや、分かってしまったと言うべきか。俺と彼女の間の絶望的な
距離だけを。
フゥが喉を鳴らし、俺の膝の上で丸くなる。その小さな温もりが、逆に自分の孤独を際立たせた。布団に潜り込んでも、耳の奥で時計の秒針がうるさく響いた。




