第10話
翌日の昼休み前、午前中のカウンセリングを終え、報告書の草案を作成していると、ウェルネススペースのドアが控えめにノックされた。予約のない訪問者は珍しい。
どうぞ、と声をかけると、入ってきたのは俺の知らない中年の男性社員だった。歳の頃は五十代だろうか。上質な、しかし華美ではないネイビーのスーツを着こなし、その佇まいには長年組織の中枢にいた者だけが持つ独特の落ち着きが感じられた。だが、その落ち着きとは裏腹に彼の浮かべた笑みは、どこか強張って見えた。弾力のない薄皮が一枚張りついて本当の表情を隠しているかのようだった。
「突然、申し訳ありません。私、経理部の部長をしております、木戸と申します」
経理部の部長。その肩書きを聞いた瞬間、俺の指がキーボードの上で止まった。昨日、俺の中に浮かんだ一つの暗い推論。実行犯である佐藤さんの、直属の上司。経理部の部長と言えば執行役員も兼ねた、この会社の経営層の一人だ。
俺は内心で即座に身構えながらも、それを悟られぬようゆっくりと椅子から立ち上がった。
「仁木と申します。EAPカウンセラーとして、こちらに常駐しております。どうぞ、お掛けください」
俺は平静を装い、来客用のソファを勧めた。
木戸部長は「ありがとうございます」と静かに言うと、来客用のソファをやり過ごし、カウンセリングで使う俺のデスクの真向かいの椅子に腰を下ろした。まるで、これから対等な、あるいは、こちらを値踏みするかのような話し合いが始まるのだと、無言で告げているかのようだった。彼のその選択に、俺はさらに警戒を強めた。
「実は先週でしたかな、うちの部の畠中がこちらに伺ったのをたまたま見掛けましてね」
木戸部長は心配そうな表情を巧みに作りながら、本題を切り出した。その声は穏やかだったが、俺には彼の瞳の奥に、鋭い光が宿っているのが見て取れた。
「単刀直入にお伺いしますが、彼女、何か悩んでいるようでしたか? もちろん、カウンセリングの内容を詮索するつもりは毛頭ありません。プライバシーの重要性は、私も管理職として重々承知しておりますので」
彼はそう前置きし、言葉を続けた。
「ただ、上司として、部下の様子に何か変化があれば、気にかけてやるのが務めかと思いましてね。最近の彼女は、どうも……少し、集中力を欠いているように見えまして。チームの和を大切にする私としては見過ごすわけにもいかんのですよ」
完璧な物腰。部下を思う善良な管理職の貌。
だが、昨夜の暗い啓示を経た俺の目には、その全てが計算され尽くした芝居に映った。探りを入れに来たな、と。
彼の言葉の端々から、「お前はどこまで知っているんだ?」という無言の圧力が、じわりと滲み出てくるのを感じた。
「ご存知の通り、守秘義務がございますので具体的なお話はできません。ここは、従業員の方が心身の健康について、安心して相談に来られる場所、とだけご理解ください」
俺はカウンセラーとしての原則を盾に、彼の探りを入れる隙を与えなかった。
「ええ、ええ、分かっておりますとも。その通りですな」
木戸部長は、大げさなくらい深く頷いてみせた。その仕草が、かえって彼の内心の焦りを物語っているように俺には思えた。彼は一度、視線を宙に彷徨わせ、何かを思い出すかのように、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「それでですね、もしやと思ったのですが……彼女、最近、ある特定の業務に、少しばかり固執しているような節がありまして。それで佐藤とも、その件で少しギクシャクしているようなんです。私は彼女たちを信頼しているので、直接あれこれ口を挟むのも気がひけましてね……」
彼は、まるで細い糸をたぐるように慎重に、しかし確実に核心へと近づいてくる。
「というわけでここに出向いたわけでして……。畠中さんは少し思い込みが激しいところがある、とでも言いましょうか。一度こうだ、と思い込むと、なかなか周りの声が聞こえなくなってしまう。特に、あの『イノベート・フォワード・アカデミー』に関して、どうも彼女、少し神経質になっているようでして……」
――イノベート・フォワード・アカデミー。
昨日、佐藤さんが口にした社名と、一言一句同じだった。心臓が嫌な音を立てて脈打つ。
偶然の一致などという生易しい話ではない。佐藤の上司。その口から同じ会社の名前が出た。
間違いない。繋がっている。昨夜、俺が組み立てた仮説はまだ甘かった。これは佐藤一人の犯行じゃない。
「こういう、少し繊細な部下には、上司としてどう接してやるのが一番なのでしょうか。専門家である仁木さんのご意見を一度伺ってみたくて……」
木戸部長は、そう言って俺の顔をじっと見つめた。その目は、もはや笑ってはいなかった。それはポーカープレーヤーが、相手の反応を読むときの冷徹な目だった。
彼は、俺が「イノベート・フォワード」という名前にどう反応するか、その一瞬の表情の変化も見逃すまいと、全神経を集中させている。二人があえて、具体的社名まで出したのはなぜか? どこへ誘導しようとしているのか?
俺は込み上げてくる不信感と、それを悟らせてはならないという自制心との間で激しく揺さぶられた。木戸の温和な表情の奥にある冷えた目を見ていると、ふと、父のことを思い出す。
『お前の人生なんだから好きにしろ』
そう言って俺を突き放した父。一見、子どもの自主性を尊重する、物分かりの良い父親の言葉。だが、その声には何の温度もなかった。俺への無関心と、向き合うことからの逃避。その言葉は、俺の胸の奥を鋭く抉るナイフとなって、ずっと突き刺さったままだった。
目の前にいる木戸の姿が、父の姿と重なる。部下の自主性を謳い、かと思えば「繊細だ」と心配するふりをしながら、面倒な「案件」として扱っている。
「……なるほど。ご意見、ですか」
俺は声が震えないように最大限の努力を払って相槌を打った。
俺のその反応に、木戸部長の肩から、ほんのわずかに力が抜けたように見えた。まだ何も知らないと判断したのか、あるいは、彼の罠に掛かったと確信したのか。
「ええ。どうも畠中さんはあの会社の請求書の件で、何か一人で思い詰めている節がありましてね。佐藤も、彼女のその頑なな態度に少し困惑しているようでして。チーム全体のパフォーマンスにも影響が出かねない。管理職としては頭の痛い問題です」
木戸部長は、なおも心配そうな口調で続ける。だが、もはや彼の言葉は俺の耳には入っていなかった。目の前にいる人の良さそうなこの男が、全ての元凶。俺の中で事件の構図は今、固まりつつあった。
「なるほど。情報ありがとうございます。今後の参考にさせていただきます。申し訳ありませんが、次がありますので」
俺がそう言って話を打ち切ると、木戸部長は「いえいえ、こちらこそ突然失礼しました」と、またあの人の良い笑みを顔に貼り付けてゆっくりと立ち上がった。彼はドアに向かい、何かを思いだしたかのように振り返った。
「畠中くんは……過去に色々あって傷つきやすいところがあるんです。だからこそ、我々も、より慎重に見てやらねば、と思っているのです」
その言葉は、一見すると部下への深い配慮に聞こえた。だが、今の俺には彼女の過去の傷さえも利用して「彼女は精神的に脆い問題社員なのだ」と印象付けようとする、悪魔の囁きに聞こえた。
彼は軽く会釈すると、今度こそ部屋を出ていった。
一人残された部屋で、俺はしばらくの間、動けなかった。これで役者は揃った。実行犯の佐藤と、黒幕の木戸。そして、彼らに追い詰められている畠中さん。
俺の仕事はもはや傷口に絆創膏を貼るだけの生ぬるい対症療法ではない。この歪んだ構図そのものを根本から破壊することだ。静かな部屋で、俺はたった一人の戦士として静かに闘志を燃やしていた。




