第26話
ウェルネススペースの空気は、濾過されすぎていて匂いがなかった。訪れる人々の苦悩をただ「傾聴」し、「共感」という名の麻酔を打ち、根本的な解決からは目を逸らし続ける場所。だが、今は違う。
机の上には、人事部から突きつけられた「文書勧告」の通知がある。冷たい活字が、俺の「越権行為」を事務的に断罪している。だが、そんなものはもはや些細なことだった。
後悔はない。あの夜、俺は一線を越えた。
会社という組織の病巣を、自らの手で抉り出すために.USBメモリに託したデータは、この孤独な叩いの唯一の武器だ。真実を追うものは、いつだって孤立する。
それでいい。
頭の中で、全てのピースが嵌っていく感覚があった。
畠中の涙、遠野の証言、佐藤のヒステリックな自己正当化、そして木戸の人の良さそうな仮面。完璧な構図だ。
俺はゆっくりと目を閉じた。人事からの警告すら、今や「行動」した者に与えられる勲章のように感じられた。使命感と、ある種の全能感に満たされていた。
その時だった。
バンッ!!
静寂を切り裂き、ウェルネススペースのドアが乱暴に叩きつけられた。
驚いて目を開けると、そこに立っていたのは、息を切らし、肩で大きく呼吸を繰り返す一人の女性だった。
寸分の隙もなかったはずのパンツスーツは皺だらけで、鋭い知性を感じさせた眼鏡は、涙の跡で汚れている。完璧にセットされていた髪は乱れ、数本が頬に張り付いていた。
その顔には、俺が知る冷たい怒りも、理不尽への苛立ちもなかった。あるのは、全てを失った者の、剥き出しの絶望と獣のようなパニックだけだった。
「……佐藤、さん?」
俺は目の前の光景が信じられず、椅子から立ち上がりかけたまま、呆然と彼女の名前を呟いた。




