第24話
午前二時半、プラスチックのカードの角が、汗ばんだ指に食い込む。壁に背を押し付けると、コンクリートの冷たさがシャツ越しに皮膚を刺した。心臓が耳のすぐそばで不規則に脈打っている。
カードリーダーのランプが、緑と赤に点滅を繰り返す。指先がこわばり、意思とは無関係に震える。
畠中の顔が浮かぶ。熱っぽい息遣いと、安物の香水の匂い。
すぐに夕梨花の冷めた目がそれを打ち消す。
『……また、何も話してくれないんだ』
諦めが滲んだ声。彼女は、俺が何かを隠していることを見抜いていた。ただ怯えているだけだということを。
潮の匂いを含んだ夜風が、汗ばんだ首筋を冷たく撫で、不意に腹の底が冷えた。
幼稚園の、あの昼休みと同じ感覚だ。母親が詰めるはずだった弁当箱は空っぽで、アルミの箱の冷たさだけが膝に食い込んでいた。誰にも見られてはならない。誰にも気づかれはならない。その一心で、俺は息を殺した。それなのに矛盾して感じる見過ごされる痛み。存在しないものとして扱われる屈辱。
だから、救わなければならない。守秘義務という言い訳の後ろに隠れ、クライアントの言葉を右から左へ聞き流すだけの空虚な自分を終わらせるために。
膝が笑い始めた。空調の低い唸りが獣の呼吸のように響く。
息を止めた。
震える指で、プラスチックの板を機械の口に押し込む。ただ、それだけのことだ。
電子音が短く鳴り、緑色のランプが点灯した。
もう、戻れない。
重いガラスのドアを押し開ける。オフィスの闇の向こうで、パソコンのモニターが放つ青白い光が瞬いていた。そこに真実があるのか、あるいは底なしの沼か。ただ、一歩ずつ光へ向かう。
この行為が、自分を、妻を、そして関わった全ての人間を破滅させる引き金になるかもしれない。その予感が、鉛のように腹の底に沈んでいく。
それでも、足は止まらなかった。
共有パソコンの冷たい光が顔を照らした。パスワードを打ち込む指先が、再び震え始める。デスクトップ画面が表示された。
フォルダを探す。畠中さんが、俺の説得に応じ涙ながらに託してくれたフォルダ。
『経理部共有(重要・閲覧注意)』。
あった。震える手でUSBメモリを差し込み、データのコピーを開始した。画面に表示されたプログレスバーが、まるで俺の決意を後押しするように、着実に進んでいく。
コピーが完了し、USBメモリを引き抜く。
彼女が万が一のためにと教えてくれていた、匿名でファイルを送信できる海外のウェブサービスにアクセスする。指定されたメールアドレス――畠中さんが用意した、信頼できるジャーナリスのものだというアドレスを入力し、暗号化されたデータを添付する。
送信ボタンの上に、マウスカーソルを置く。一瞬、彼女の「やめてください」という声が頭をよぎる。
俺は、静かに、エンターキーを叩いた。
――その時だった。
曲がり角の先から、規則正しい足音が近づいてきた。




