第20話
ウェルネススペースの窓から見える空は、まるで俺の心の内を映すかのように、重たい雲に覆われていた。
昨夜の出来事は、一夜明けると怒りよりも深刻な恐怖となって俺の心を締め付けた。
俺への脅迫は、畠中さんへの脅迫でもある。いや、本丸は彼女だ。俺は部外者だが、彼女は奴らに「不正の証拠を握っている」と思われている内部の人間だ。口封じのために、奴らが次にどんな手段に出るか分からない。最悪の場合、彼女は七年前の犠牲者と同じ運命を辿るかもしれない。
最初に行動すべきことは決まっていた。七年前の事件について知っているであろう人物――畠中さんへのいじめについて相談に来た、あの気弱な男性社員、遠野にもう一度会うことだ。
あの時の彼の態度は、両親を痛める繊細な青年のものに見えた。だが、真相に近づきつつある今、彼の怯えは全く別の意味を帯びてくる。
彼は行動できない自分への罪悪感に苛まれていた。ウェルネススペースに来たのも、救いを求めての一歩だったはずだ。ならば、真実を話してくれるかもしれない。
俺は椅子から立ち上がり、固く拳を握りしめて部屋を出た。
ディープストラテジー本社の廊下は、ガラスと鉄でできた冷たい迷宮だった。すれ違う社員たちの視線が背中に突き刺さる。この人たちはどこまで知っているのか、共犯か、それとも「見て見ぬふり」を決め込む傍観者か。
まずメインの社員食堂へ向かったが。談笑する群れの中に遠野の姿はなかった。別のフロアのリフレッシュラウンジも無人だった。焦燥感に駆られ諦めかけた時、面談の際に彼の胸ポケットから見えたタバコを思い出した。喫煙スペースだ。
普段は踏み入れないサービス用の通路、その薄暗い廊下の突き当り。鉄製の扉を開けると、気だるい空気が漂う中、目当ての人物がいた。遠野が一人で壁に寄りかかり、紫煙を燻らせている。
息を切らし、足早に近づいた。尋常ではない俺の気配に気づいたのか、遠野は訝しげな顔を向ける。大きな眼鏡の奥の瞳が、不安げに揺れていた。
「遠野さん、少しだけ時間をいただけますか」
俺の声は自分でも驚くほど低く、硬質だった。カウンセラーとしての柔和な響きは消え失せ、目的のためには手段を選ばない、冷徹な響きだけが残っていた。遠野は気まずそうに視線を逸らし、携帯灰皿に吸いかけのタバコを神経質に押し付けた。
「仁木さん……。この前話したこと、あれ以上は何も……。僕には何もできません」
「畠中さんを救いたいんです」
俺は彼の言葉を遮るように、一歩踏み込んだ。
「彼女は今、一歩間違えればすべてを失う状況にいます。そして、その危険は、この会社の過去と繋がっている可能性がある」
遠野の肩が微かに震えた。彼はすぐにその動揺を厚い無関心の壁の向こうに隠そうとする。この会社で生き延びるために身につけた、哀しい処世術のようだった。
「……やめてください。僕には関係ない」
「関係なくないでしょう!」
俺の声が、コンクリートの壁に大きく反響した。
「先日、別の社員から聞きました。七年前に、経理部で誰かが亡くなっていると。そのことについて教えて欲しいんです。畠中さんを救うために、どうしても知る必要がある」
俺の言葉は、もはや冷静なカウンセラーのものではなかった。
「俺は、もう見て見ぬふりはしたくない。あなただって同じ気持ちじゃないんですか? 後悔したくないでしょう!」
遠野は唇をきつく噛み締め、アスファルトの一点を見つめていた。彼の指が、ズボンのポケットの中で何かを固く握りしめているかのように震えている。息の詰まるような沈黙が流れた。やがて、諦めたように深く息を吐きだすと、彼は絞り出すような、ほとんど呻き声に近い声で言った。
「……あんなことになるなんて、思ってなかったんです」
それは長い間、彼の心の中で澱のように溜まっていた告白の始まりだった。
「亡くなったのは……田中です。田中諒太。僕と同期で……一番の、親友でした」
初めて聞く名前に、俺は息を呑んだ。遠野の語る七年前の経理部は、俺が想像した以上に陰湿で、巧妙な暴力が支配する場所だったという。それは明確な暴力や暴言があるわけではない。しかし、無視、孤立、責任の押し付けといった、目に見えないナイフが日常的に飛び交っていた。その中心にいたのが、当時の上司、現在の部長である木戸だった。
「諒太は……あいつは、真面目すぎたんです。だから、気づいてしまった。経費の不自然な流れに。最初はただの間違いだと思って、木戸部長に報告した。それがすべての間違いの始まりでした」
そこから、すべてが変わった。田中は徐々に重要な業務から外され、誰にでもできるような雑用ばかりを押し付けられるようになった。彼が会議で発言すれば、木戸はわざとらしく欠伸をし、それを皆が鼻で笑った。共有されるべき情報が、彼にだけ回ってこない。わざとミスをするように仕向けられ、鬼の首でも取ったかのように全員の前で詰められた。畠中さんと同じように。
「部内のほとんどが、部長の意を汲んで諒太を追い詰めていました。みんな、悪いとは分かっていたはずです。でも逆らえなかった。見て見ぬふりです。僕も……何も言えなかった」
遠野の目に涙が滲んだ。
「あいつ、最後に言ってたんです。『誰も俺の言うことを信じてくれない。俺が間違ってるみたいに言われる。もう、何が本当なのか分からない』って……」
それはまさに今、畠中さんから聞かされている言葉と同じだった。
ガスライティング――対象者の正気や知覚を疑わせる心理的虐待の手法が、七年前からこの会社に深く根を張っていることを確信した。
「会社は、諒太の死を『個人的な悩みが原因の突発的な自殺』として処理しました。パワハラの調査も形だけで、結局何も変わらなかった。ウェルネススペースだって、会社のイメージアップのための見せかけですよ。あいつの死を、安っぽい免罪符にしやがったんだ」
遠野は吐き捨てるように言った。俺は、彼の言葉に深く頷く。心の中で、田中さん、畠中さんへの同情と、加害者たちへの怒りが、制御不能なほどに膨れ上がった。
「……そう、だったんですね」
込み上げる激情を抑え、かろうじてそれだけを口にした。
「わかりました。もう大丈夫です。何度も勇気をだしてくれてありがとう……。あとは、僕がやります。畠中さんを田中さんと同じ目にはしません」
その言葉を聞いた瞬間、遠野は何かを言おうとしたが、言葉にならず俯いて涙を流していた。




