第19話
残業が長引き、オフィスを出る気力を失っていた。気づけば時計は深夜一時を回っている。クライアント用の簡易ベッドに身を横たえることに決め、シャツとスラックスを脱いで、ハンガーに掛けた。窓の外では、高層ビルの光が水面に映り込み、俺の歪んだ心象風景のようにぐにゃりと揺らめいていた。
疲れているのに、脳だけが稼働を止めない。目を閉じても、木戸と佐藤の冷たい目。畠中さんの怯えた瞳。遠野くんの罪悪感に震える声が次々と浮かび、疑念が黒い霧のように心を覆っていく。
(奴らは、俺が核心に迫っていることにどこまで気づいている?)
(畠中さんは無事だろうか)
七年前の事件、一人の社員の死。それがもし誰かの手によるものだとしたら……。焦りと得体のしれない恐怖が、冷静な判断力を奪っていく。
意識が曖昧な境界を揺れ、思考は迷宮に沈んでいく。現実と夢と妄想が入り混じる、奇妙な領域に迷い込んだような感覚。
混乱する頭を振り、無理やり目を開けた。その時、ふと、デスクの上の些細な違和感に気づいた。
いつも、モニターの右横に寸分の狂いもなく置いている黒いボールペンが、ごくわずかに左へズレている。
(……気のせいか)
清掃業者が入ったのかもしれない。そう自分に言い聞かせ、ペンを元の位置に戻した。だが、一度生まれた疑念の種は、心の隅で静かに芽吹き始めていた。
次に目に入ったのは、窓際に置かれた観葉植物だった。モンステラの艶やかな葉の上に、不自然な水滴が一つ、きらりと光っている。昨日、俺が水をやった時にはなかったはずだ。空調の結露だろうか。いや、この部屋の湿度は常に完璧に管理されている。
心臓がどくんと嫌な音を立てた。
俺はベッドから起き上がり、部屋の中をゆっくりと見回した。本棚の並び、クッションの角度。すべてがいつも通りに見える。だが、その「いつも通り」が、今はひどく脆く、誰かによって巧妙に作り上げられた舞台装置のように思えてならなかった。
(誰かが、この部屋に……?)
まさか。この部屋の鍵は、俺と人事部の特定の管理者しか持っていない。彼らが俺の不在時に無断で立ち入るなどあり得ない。
(いや、あり得る)
木戸と佐藤ならやりかねない。彼らは、邪魔者を精神的に追い詰めるためなら、どんな手段でも使うだろう。俺が真相をどこまで掴んでいるのか、畠中さんがここで何を話したのか、探りに来たとしてもおかしくない。この聖域を汚し、俺の正気を揺さぶろうとしているのだ。
恐怖が足元から這い上がってくる。だが、それと同時に奇妙な興奮が体を支配し始めていた。そうだ、これでいい。彼らがここまで汚い手を使い始めたということは、俺の推測が、核心を突いていた何よりの証拠だ。
パソコンに触れられた形跡はないか。予約管理用のPCに目をやる。スリープ状態の黒い画面に映る自分の顔が、薄ら笑いを浮かべているように見えた。
その瞬間だった。
画面が一瞬だけ、切り替わった。
いつもの、当たり障りのない風景写真のスクリーンセーバーではない。
真っ黒な背景に、白いゴシック体の文字が浮かび上がっていた。
『み て い ま す よ』
「――っ!」
息を呑み、椅子から飛びのく。心臓が肋骨を突き破らんばかりに激しく鼓動していた。
だが、その画面は瞬きをする間に消え、後には何事もなかったかのように、いつもの風景写真が映し出されている。
(今のは……幻覚か?)
疲労とストレスが見せた、ただの幻?
いや、違う。俺は確かに見た。あの冷たく無機質で、悪意に満ちた五つの文字を。
震える手でマウスを握り、PCのログを調べようとする。だが、そんな専門的な知識は俺にはない。誰かに助けを求めなければ。そうだ、情報システム部に――。
受話器に手を伸ばしかけて、止まった。
(馬鹿か、今は深夜二時過ぎだ)
俺はかぶりを振る。
(それに、何をどう説明する?)
「スクリーンセーバーが一瞬、脅迫メッセージに変わったんです」とでも言うのか。
証拠は何もない。ログを調べても何も出てこなければ、俺はただ精神に異常をきたした妄想癖のカウンセラーとして扱われるだけだ。それこそが、奴らの狙いなのだ。
俺は、その場にへたり込みそうになるのを必死でこらえた。
間違いない。これは、奴らからの宣戦布告だ。
聖域であるこの部屋を侵し、俺の正気そのものを破壊しようとしている。
ここまでやるのか。か弱い人間を追い詰めるだけでは飽き足らず、その人間を守ろうとする俺をも、同じ闇に引きずり込もうとするのか。
許せない。
許さない。
断じて、許せるものか。
もう、ためらっている時間はない。公式な手段では何も解決しない。それどころか、俺自身が潰されるだけだ。ならば。俺がやるしかない。この歪んだゲームのルールを、俺自身の手で書き換えてやる。
暗いオフィスの中で、俺は己の手で真実の扉をこじ開けると固く誓った。
彼らが仕掛けた心理戦は、皮肉にも、俺の理性に残っていた最後のタガを断ち切る引き金となったのだった。




