第17話
ウェルネススペースの壁に掛けられたミニマルなデザインの時計が、音もなく秒針を進めている。午後三時十五分。俺は革張りのアームチェアに深く身を沈め、指を組んだまま窓の外を流れる雲をぼんやりと眺めていた。かつて、この誰にも邪魔されない空白の時間は、思考を整理し精神の鎧を脱ぐための貴重なひとときだった。だが、今は違う。夕梨花から昨夜突きつけられた言葉が、ガラスの破片のように思考のあちこちに突き刺さり、集中を許さない。
――「空っぽ」
その一言が、頭の中で何度も反響し、心をじわじわと切り刻んでいく。
その時だった。
コン、コン
控えめなノックの音が、俺の内省を破った。予約時間にはまだ早すぎる。俺は少し眉をひそめながら「どうぞ」と声をかけた。
ドアがゆっくりと開き、そこに立っていたのは、意外な人物だった。
数週間前、「で、これ、具体的になんかしてもらえるんですか?」という、無力感を抉る言葉を投げつけていった、あの若手営業社員だった。確か、名前は村上と言ったはずだ。
彼は、前回より少し猫背気味に、気まずそうな表情で入り口に立ち尽くしている。
「あの……すみません、予約もしてないのに。今、大丈夫ですか?」
「ええ、構いませんよ。どうぞ、座ってください」
俺は内心、あれこれ悩むよりは気も紛れるだろうという下心で、彼を促した。
村上はぺこりと頭を下げると、おずおずと部屋に入り、俺の向かいにあるソファに浅く腰掛けた。その手には、会社のロゴが入った安っぽいクリアファイルが握られている。
「また、何かありましたか?」
俺はできるだけニュートラルな口調で問いかけた。
村上は一度何かを言いかけて口ごもり、視線を床に落とす。やがて、まるで観念したように、ふう、と大きなため息をついた。
「いや……全然大したことじゃないんですけど、こないだ聞いてもらった時、なんか少し楽になったっていうか。その……お礼と、また愚痴聞いてもらいたくて……すみません」
表情には出さなかったが内心嬉しかった。彼には具体的なことは何もしてやれなかったし言えなかったが、それでもこうしてきてくれる。聞くことで救われる人間もいる。
「村上さんのお役に立てて良かったです。愚痴でも何でも、話したいことがあれば聞きますよ。それが私の仕事ですから」
その言葉に少しだけ背中を押されたように、村上は顔を上げた。その目には、諦めと、それを通り越したような奇妙な明るささえ浮かんでいた。
「ありがとうございます。いや、もう、バカバカしすぎて、逆に笑えてきちゃって。誰かにこのバカバカしさを聞いてもらわないと、やってらんないっていうか」
彼はそう言うと、自嘲気味に口の端を歪めた。俺は、黙って彼の次の言葉を待った。
「リスキリング研修って、知ってます?」
村上は、唐突にそう切り出した。
「ええ、もちろん。最近、会社が力を入れている能力開発プログラムですよね。新しいスキルを身につけて、時代の変化に対応していこうという」
俺は、人事部から回ってくる資料の内容を思い出しながら答えた。ディープストラテジー社が、ここ数年、特に熱心に取り組んでいる施策の一つだ。DX化の推進、グローバル人材の育成といった、耳障りの良い言葉が並んでいたはずだ。
「力、入れてるねぇ? その『やってる感』が、最高にバカバカしいって話なんですよ」
俺の言葉に、村上はまるで汚物でも見るかのような目で宙を睨んだ。
「そのありがたーい研修に、俺、この間、強制参加させられまして」
彼の声には、あからさまな皮肉が滲んでいた。
「強制、ですか?」
「そう。部長命令。『村上、お前ももうすぐ三十になるんだから新しい武器を身につけろ。これはチャンスだぞ』とか言われて。で、行かされたのが『新時代のデータドリブン・マーケティング入門』みたいな、胡散臭いタイトルの研修」
村上は、持っていたクリアファイルをバンとテーブルの上に置いた。中から、数枚の資料が滑り出る。表紙には、確かにその研修名がこれまた胡散臭い未来的なフォントで印刷されていた。
「それで、どうでしたか、その研修は」
俺の問いに、村上はぷっと吹きだした。こらえきれないといった様子で笑っている。それは、楽しい笑いではなく、すべてを諦観した者の、乾いた笑い声だった。
「最高でしたよ、いろんな意味で。まず、講師。茶髪のどっかから連れてきたその辺の大学生みたいなの。開口一番、『皆さん、マインドセットはできてますか?』ですよ。こっちは朝九時から叩き起こされて。目覚ましのセットの話かと思いましたよ」
村上はニヤニヤしながらも苛立ちを隠さない。次第に熱を帯びていく。それは、不満というよりも、質の悪いコメディを観劇した後の感想に近い。
「で、研修が始まったと思ったら、ほとんど海外の有名講師の講演動画流して終了。あれ絶対YOUTUBEで拾ってきたやつですよ。字幕の日本語はガバガバで意味わかんないし。講師は机の下でずっとスマホいじってるし」
俺は、相槌を打ちながら彼の話を黙って聞いていた。会社の研修制度に対する不満は、ウェルネススペースではありふれたテーマの一つだ。しかし、今日の村上の話にはどこか、ただの愚痴とは違う奇妙なリアリティと切実さが宿っていた。
「んで、動画終わったら講師が、感想を交流しましょうとか言ってグループワーク。これがまた地獄で。メンバーが新卒みたいな子と、定年退職した再雇用のおじさんたちの寄せ集め。誰も何も意見言わないから、俺が仕方なく、『KPIは正しく使いましょう』とか適当言ったら、おじさんたち『おぉ、村上くん、すごいな!』とか言って全部丸投げ。あんたらのリスキリングだろうが! って話でしょ」
彼は一度言葉を切り、ごくりと喉を鳴らした。
「これが一月ごとに合計三回、あと二回もあるんすよ。終わってますって」
村上は一気にそこまで捲し立てると、はあ、はあ、と肩で息をした。そして長い沈黙の後、先ほどの熱を完全に取り払い呟いた。
「惨めっすよ……。あんな研修の頭数にされて……ああ、俺は会社に全く評価されてないんだなって……」
少し彼の目が光っているようにみえた。何か言葉を挟もうとした時、村上が呟いた。
「いい商売ですよね、あの『イノベート・フォワード・アカデミー』とかいうクソ会社。あんなんでも金もらえるんですから。しかもご丁寧に、上司から『講師にちゃんとハートポイント送っとけよ』って指示までくる。あれで感謝を強要されるとか、意味わかんなでしょ。……いっそ、俺を雇ってくれないかな」
その名前が発せられた瞬間、俺の背筋を冷たいものが走り抜けた。村上の自嘲するような笑いが耳から耳へノーブレーキで駆け抜けていく。
畠中が、請求書のミスをしたという研修会社。佐藤が、その存在を不審に思っていた会社。木戸が、畠中がその件で神経質になっているとわざわざ告げに来た会社。
そして、夕梨花の新聞社に投書された問題の会社。
点と点の情報が、実態を帯びたことによって、再び頭の中で一つの星座を描き始めた。
「……ひどい研修ですね、でも一応、形にはなってるんですね」
俺は声が上ずらないように、細心の注意を払って尋ねた。心臓が、ドクン、ドクンと大きく脈打っているのがわかる。
村上は、俺の微妙な変化には気づかない様子で、首を振った。
「いや、形っていうか……。まあ、典型的なアレ系の会社っすよね。実態があるんだか、ないんだか。ホームページは一応あるんでけど、ほとんどなんも書いてない割には、やたらとオシャレで立派なんすよね。うちの会社、こういう意識高い系のコンサルとか研修会社に金を払うの好きなんですよ。なんか『やってる感』が出るから」
『やってる感』、か。その言葉を胸の奥で反芻した。確かにこの会社は「やってる感」を演出するのが異様にうまい。ウェルネス、ダイバーシティ、ハートポイント。あらゆる現代的な課題に対して莫大な予算を投じ、専門の部署を作り、研修を実施する。しかし、その実態は、村上が語るような空虚な茶番劇の繰り返しなのかもしれない。
「そうなんですね」
俺は何とか平静を装って相槌を打った。気づけば次のクライアントの予定時刻まで残り五分を切っていた。
「貴重な話を聞かせてもらいました」
「いやいや、こっちこそ聞いてもらってスッキリしました」
村上は、少し照れたように頭を掻いた。
「すみません、結局ただの愚痴で」
「いいえ」
俺はゆっくりと首を振った。
「どんな話にも、意味はありますから」
村上はその言葉を聞いてはにかんだ。
「まあ、でも」
ウェルネススペースを出ていこうとソファから腰を上げた村上が、ドアノブに手をかけながら、ふと何かを思い出したように振り返った。
「しょうがないんですかね、こういうの」
「……しょうがない、とは?」
俺は、彼の言葉の意図を図りかねて、問い返した。
村上は少し遠い目をして、ウェルネススペースの清潔だがどこか無機質な空間を見回した。やがて、ポツリと、独り言のように呟いた。
「全部、見せかけですよ。パフォーマンスっていうか」
彼は俺のほうに視線を戻すと、続けた。
「七年前に、経理部の人が死んでから、うちの会社、こういうウェルネス系のことに、何かに憑りつかれたみたいに必死なんですよ」
時間がとまった。
世界からすべての音が消え、村上の声だけが、おぞましいスローモーションとなって鼓膜に響く。
ななねんまえ。けいりぶ。しんだ。
その三つの単語が、俺の脳内で巨大な活字となって明滅する。
「この部屋だって」
村上は、自分の足元を指差した。
「その事件がきっかけでできたってもっぱらの噂ですしね。まぁ、俺もその頃はまだいなかったんで、人から聞いた話ですけど。まあでも……そのおかげで俺は今助かってる部分もあるっすからね」
彼はそこまで言うと、「じゃ、お邪魔しました」と軽く挨拶し、今度こそ部屋を出ていった。ドアが閉まる。カチャリという乾いた音が、静まり返った部屋にやけに大きく響いた。俺はアームチェアに座ったまま、身じろぎもできなかった。
村上が残していった言葉が、頭の中で恐ろしい化学反応を起こし始めていた。七年前の事件。その事件で人が死んだ。その事件をきっかけに、会社は「ウェルネス」に必死になった。このウェルネススペースも、その一環として作られた。思考が巡る。
トントン、次のクライアントが来る。
――この人の死によって出来たウェルネススペースへ。




