第16話
部屋には相変わらずタイピングの音だけが鳴り響いている。夕梨花は資料の山という名の要塞に籠城しているかのようだったが、その姿はむしろ突破口を見出した司令塔のように見えた。パソコンの画面には無数のタブが開かれ、彼女の指は獲物を見つけたチーターのように速く、しかし正確にキーボードを叩き続けている。
ジャーナリストとしての彼女は、最近ずっと「イノベート・フォワード・アカデミー」と「ディープストラテジー」について調べている。時折、苛立たしげに髪をかきむしり、小さくため息をつく姿は混沌そのものだった。
俺はただ黙ってみていた。
爆発のきっかけは唐突に訪れた。夕梨花がキーボードを叩く手をピタリと止め、俺の方に振り返った。
「ねぇ、輝くん。ちょっと意見を聞かせてくれない?」
夕梨花がじっと俺の目を覗き込む。その咄嗟の問いは俺の身を少し固くした。
「一度やめた悪事を何年も経ってからまた始める人ってさ……どういう心理なんだろ。何かきっかけがあるのかな」
あまりに唐突で意味が分からなかった。
俺は自分の知識から当たり障りのない答えを探した。
「そうだな……監視が緩んだとか、環境が変わったときが多いんじゃないか。それに、長いことやってないと当時の罪悪感や恐怖も薄れるのかもしれないな」
「ふーん、そうなんだね」
夕梨花は相槌を打ちつつも表情に特別な変化はない。手元のカップを一度置き、視線をこちらに真っすぐ向ける。それまで穏やかだった声色がわずかに低くなる。
「……輝くんってさ、ディープストラテジーで常駐してるって言ってたよね。そういう人っているの?」
知ってたのか……まぁ、それはそうか。いくら俺に無関心とはいえ、夫の職場を知らないわけもない。だとしたらこれは探りか。どこまで知っているのか試しているのか。
俺は咄嗟に言葉を探し、いつもの盾を構える。
「こないだも言った通り守秘義務があるんだ。クライアントのことは話せない」
表向きには職業倫理。だがその実、これは俺の聖域を守るための防衛反応だった。
この俺だけが真実を知る悲壮で崇高な戦いに、彼女を介入させるわけにはいかない。彼女はこの聖域の部外者なのだから。
その瞬間。夕梨花の顔からすうっと表情が消えた。
「守秘義務、ね。分かった」
彼女は静かに言うと、一枚のプリントアウトした紙を俺の目の前に差し出した。それは、法務局の登記情報だった。
「じゃあ、これは公の事実だから話せるわよね。この『イノベート・フォワード・アカデミー』を設立した人物。――代表取締役、木戸文也」
時間が、止まった。
音が消える。木戸部長が。やはり、これで決定的だ。ただの社内のいじめ問題という単純な「善と悪」の問題ではなかった。
突き付けられた事実に狼狽する俺に夕梨花が呟く。
「木戸文也、あなた知ってるんでしょ?」
俺は咄嗟に言葉を返せず沈黙した。自分の推論と妻の証明が一致し、突然つきつけられた事実を理解するのに必死で言葉が出ない。息遣いだけが沈黙の中で揺れる。
「……また、何も話してくれないんだ」
胸の奥が締めつけられるように痛んだ。その言葉を皮切りに彼女の感情が溢れ出した。
「私が一人でここまで調べてるのに、あなたは何? 守秘義務? あなたの働いてる会社のことでしょう? 目の前で何かが起きてるんじゃないの……!」
夕梨花の目から涙がこぼれる。
「だから……言えないんだよ。俺なりに、考えて動いてる。それに……君を危険な目に遭わせたくない」
彼女は涙を拭おうともしなかった。普段のあっけらかんとした彼女とは違い、感情が滲みでていた。怒り、悲しみ、七年間溜まっていた何かが。
「あなたは考えてるだけで、何も行動しようとしないじゃない!」
その言葉が全身に突き刺さった。一番言われたくない言葉、否定できない事実。
部屋に重苦しい空気が流れ、俺は全身から汗が噴き出すのを感じた。
「あなたは、そんな人じゃないじゃない! 輝くんは、自分の声を持ってる人だった!」
彼女は、俺がかつて匿名で書いていたブログの名前を口にした。
「『瞑想39』……私、あのブログが大好きだった」
それは失われたものへの痛切な叫びだった。
「あの場所には、あなたの本当の声があった。皮肉屋で、捻くれてて、でも物事の核心を突いていて……。読んでると、あなたの魂の中を直接覗いているような気がしたの。『自分の内面を晒して、それでも人に好意を向けられるなんて初めてだ』って、あなたは言ってくれたじゃない。私は、あの声を持つあなたと、一緒になりたいと思ったのよ」
彼女が愛したのは自分の声を持つ男だった。しかし、結婚してからの七年間、俺はその声を出すことは結局なかった。安全な沈黙の壁の内側へ引きこもった。
「あなたは、誰? 本当のあなたはどこに行ったの? 私が愛した人は、ただ人の話を聞くだけの、空っぽのカウンセラーなんかじゃない!」
その言葉の裏には悲痛な本音が隠されていた。――私は、声を持つ男に恋をした。そしてあなたは、七年かけて、私からその声を奪い続けた。
俺にとって、それは最も聞きたくない真実だった。
「空っぽ」。その言葉が、幼い日の弁当箱の記憶と重なる。
「……もういい」
夕梨花が低く呟いた。声は震えていたが涙は見せない。その瞳はまっすぐ俺を射抜いたまま机からファイルを数冊取りあげ、玄関に向かって歩き出した。足音が乱暴に廊下を打ち振り返りもせずドアを叩きつけるように閉めた。バタンという音の後、静寂が残された。
俺はリビングに立ち尽くし、耳の奥で夕梨花の最後の足音が遠ざかっていくのを聞いていた。家の中には吐き捨てられた言葉の破片だけが、見えない棘のように漂っている。
俺はゆっくりとソファに沈み込んだ。暗い部屋の中、時計の針の音がやけに大きく響く。――何をしている? どうしてこうなった? 答えは出ない。ただ、取り繕ってきたものが、彼女の言葉一つで崩れ去った事実だけが重く胸にのしかかってくる。
暗がりの中で俺は額を押さえた。誰もいない家の空気は冷たく、自分の息がやけに大きく響いた。




