第15話
まず、基本の法人情報から洗った。典型的なペーパーカンパニーのそれだ。事業内容の具体性も、実績の裏付けも何一つ見当たらない。
「幽霊の住所に、幽霊の会社か……」
本店所在地は都内の私書箱オフィスサービスのものだった。存在しない住所に、存在しない会社。まるで私たち夫婦関係そのものみたいだ、と自嘲的な考えが頭をよぎる。会話はある。日常もある。でも、決して触れることのできない空虚な何か。
思考の角度を変える。添付資料にあった「多額のコンサル料」。あれが本物なら実績のない企業にディープストラテジーほどの規模の会社が業務委託するだろうか。通常は信頼できる業者を選ぶはずだ。例外があるとすれば、それは――。
「――裏に、誰かいる」
輝くん、あなたが、その「誰か」なの?
私は、より深く専門的なデータベースへとアクセスを切り替えた。新聞社が契約している、企業の信用情報を網羅した有料データベースだ。
検索窓に再び『イノベート・フォワード・アカデミー』と打ち込む。
画面に表示されたのは先ほどと大差ない基本的な情報。だが、私が見ていたのはそこではなかった。マウスを操作し、その会社の「変更履歴」のタブをクリックした。企業の登記情報は役員の変更や本店の移転など、何らかの変更があるたびに更新される。
もし、この会社に過去があるのなら、その痕跡は必ずここに記録されているはずだ。
スクロールバーを下げていく。無味乾燥なテキストデータが並んでいる。諦めかけた。その時だった。
私の指がぴたりと、止まった。
【ステータス】休眠会社のみなし解散
『会社設立の年月日』七年と一ヶ月前
「……七年前?」
心臓が小さく鋭く脈を打った。確か投書によれば、横領は八ヶ月前からと書いてあった。七年以上前に一度設立され、その後、活動実態のない「休眠会社」として扱われ、法的に解散したものとみなされていた。それが、つい最近になって再び活動を再開させたのだ。
なぜ、そんな面倒な手続きを踏む? 新しく会社を作る方がよほど簡単で費用もかからないはずだ。休眠会社をわざわざ復活させるからには、相応の理由がある。過去の取引実績を引き継ぎたいのか。あるいは――。
「――設立時の情報を、隠したいのか」
その考えは即座に輝へと結びついた。
あなたは、何を隠しているの? 『瞑想39』のあなたを殺して、今のカウンセラーとして生きているのは、この休眠会社と同じ理屈なの?
指が震えていた。私はその休眠前の設立当初の登記情報を引き出すために、さらに深くデータベースを掘り進めていく。画面のバーがやけにゆっくりと進んでいく。まるで、私に「これ以上は危険だ」と警告しているかのように。
やがて、画面に一枚の画像データが表示された。七年前に法務局に提出された、「登記事項証明書」のスキャンデータだ。
少し古いフォーマット。だが、そこに記載された情報は紛れもない客観的な事実だ。
商号:株式会社イノベート・フォワード・アカデミー
本店:東京都渋谷区(現在は存在しない住所)
目的:経営コンサルティング業務、人材育成に関する研修の企画及び運営......
そして、私の視線は、その書類の一番下に記された一つの名前に吸い寄せられ、釘付けになった。
【代表取締役】木戸 文也
その名前を見た瞬間、編集局のすべての音が完全に消え去った。
木戸文也。タレコミにあった不正の首謀者とされるディープストラテジー社の経理部長。彼がこの会社の創業者だった。
匿名のタレコミは真実だった。七年前という時間。投書の八ヶ月とは違う、長い歳月をかけた、より継続的で悪質な不正。
バラバラだった点と点が一本の黒く歪んだ線で繋がっていく。私の脳内で恐ろしく、しかし完璧なロジックが組み上がっていく。
第一に、匿名の投書は木戸文也が不正の首謀者だと名指ししている。
第二に、その不正に使われたとされる幽霊会社は、他ならぬ木戸文也自身が七年前に設立した会社だった。
そして第三に、輝はディープストラテジー社に勤務しており、イノベート・フォワード・アカデミーの名前を聞いただけで恐怖のあまり顔面蒼白になった。
結論は、一つしかあり得ない。
輝はこの事件を知っている。それも、ただの噂としてではない。当事者に近い、極めて危険な立場でこの事件に関わっている。彼が木戸部長の共犯者なのか、それとも弱みを握られた被害者なのか、それはまだ分からない。だが、彼がこの黒い輪の中にいることは、もはや疑いようのない事実だった。
昨夜の彼の沈黙は守秘義務によるものではなかった。あれは共犯者の、あるいは恐怖に怯える当事者の、悲鳴に近い沈黙だったのだ。
私は椅子の背もたれに深く身を沈めた。これは単なる社内の金銭トラブルなどではない。私たちの家の中にまで及んでいる。
冷たい汗が背筋を伝う。これはもうただの「ネタ」ではない。私の、そして輝の人生を、根底から破壊しかねない、危険な真実だ。
私は、静かにスクリーンショットを撮り「プロジェクト・瞑想39」と名付けられたフォルダにその画像を保存した。皮肉なものだ。私が愛した彼の「声」の象徴が、今や彼の罪を暴く証拠を収めるための冷たい器になってしまった。
おもむろにスマートフォンを手に取る。指先が氷のように冷たくこわばっていた。
LINEを開き、彼にメッセージを送ろうとするが、指が止まる。
この一言が引き金になる。私たちの間に築かれた七年間の脆い平和を、完全に終わらせる引き金に。
そう思うと指が震え、どうしても送信することができなかった。




