第13話
ディープストラテジー本社の廊下は、ガラスと鉄でできた冷たい迷宮のようだった。床には寸分の狂いもなく正方形のタイルが敷き詰められ、革靴の音だけが乾いた響きを返す。天井のダウンライトは感情のない光を投げかけ、低く唸る空調と過剰に濾過された空気が、この空間の人間味のなさを際立たせていた。
ここは俺が救おうとしている人たちが働く場所だ。それなのに温かみを拒む冷徹な合理性が、建物の隅々にまで染み込んでいる。これが俺が戦っているシステムの象徴だと感じた。
昨晩の夕梨花の言葉を反芻する。大手マスコミに送られてきた匿名の投書、イノベート・フォワード・アカデミー。さらに、俺が常駐するディープストラテジー。
そもそも、彼女は俺の仕事にさほど興味がない。どのEAP派遣会社に所属し、どんなクライアント企業に常駐しているかなど、彼女の世界では取るに足らない情報なのだ。一番の取材対象がこんなに近くにいるのに彼女はまるで気づかない。皮肉な話だ。だがそれでいい。その方が安全だ。俺はそう自分に言い聞かせた。
廊下の向こうに人影が見えた。逆光でシルエットしか見えない。その影がこちらに向かってくる。足が止まった。やがて輪郭がはっきりする。グレーのカーディガン、俯きがちな歩き方。
畠中さんだ。
彼女が俺の存在に気づき顔を上げた。その瞳が大きく見開かれ、体がびくりと硬直する。それは暗がりで天敵に出くわした小動物の純粋な恐怖そのものだった。無理もない。ここは彼女にとって敵地も当然なのだから。
しかし、その恐怖は一瞬で消え、深く痛切な表情に取って代わられた。それは助けを求める懇願と、唯一の理解者に対する感謝が入り交じった複雑な眼差しだった。
俺は視線を逸らさなかった。カウンセラーの仮面を外し、一人の人間として彼女の瞳の奥にあるはずのSOSを真正面から受け止める。
彼女は小さく頷いた。ほとんど見えないほどの動き。だが、明確だった。それは同志としての確認であり、無言の信頼表明に他ならなかった。
次の瞬間、彼女はふっと視線を逸らし、胸のファイルを強く抱きしめる。俺の横を早足で通り過ぎると、一度だけ、不安そうに振り返った。彼女の姿が消えても俺は立ち尽くしていた。彼女が残した残響がまだ廊下に漂っているようだった。佐藤と木戸、もしかしたらそれ以上の何か。欺瞞の中での孤立。受動的な聞き手でしかなかった俺が事件の核心に触れようとしている。
妻・夕梨花との関係が始まったばかりの頃。彼女は俺が匿名で書いていたブログ「瞑想39」の読者だった。
「心の奥まで見透かされているみたい。でも嫌じゃない」と彼女は言った。暗い内面を理解され、好意を向けられる。秘密の共犯関係のような繋がり。その感覚が嬉しかった。
今、畠中との間に感じているこの繋がりはあの頃の感覚によく似ている。誰にも見せていない本当の自分を理解してくれる、唯一の存在。
前を向き歩きだす。迷いはなかった。背筋に一本の芯が通るのを感じた。俺の肩には畠中の運命と巨大な悪を暴くという使命、そして未だ亡霊のようにつきまとう幼少期の記憶がずしりと掛かっている。




