第12話
自席に戻った夕梨花は、編集局の喧騒が遠のいていくのを感じた。彼女の意識は目の前のモニターに完全に集中していた。まず、暗号化された新しいフォルダをデスクトップに作成し、『プロジェクト・瞑想39』と名付けた。入社以来、正体不明の告発者を指すコードネームとして、彼女が密かに愛用している名前だ。
有持の指示通り彼女は予備調査を開始した。まず、「イノベート・フォワード・アカデミー」を検索する。結果は、ペーパーカンパニーにありがちなごく僅かな情報しかヒットしなかった。法人番号、住所は私書箱サービスのものだった。次に、木戸と佐藤の名前を手がかりにディープストラテジーの公開情報やSNSの情報を照合していく。何かしらの綻びがないかを探る地道な作業だ。
ディープストラテジーのHPを開く。洗練されたデザインのコーポレートサイト。そのロゴを見た瞬間、夕梨花の背筋に微かな既視感が走った。言いようのない胸騒ぎ。その名前。どこかで聞いた。それも一度や二度ではない。そうだ。家で、夫の輝が口にしていた名前――夫が勤めている会社。
その事実はドラマチックな衝撃としてではなく、冷たい氷がゆっくりと足元から這い上がってくるような鈍い恐怖となって彼女を包んだ。匿名の封書が告発する不正の舞台は、どこか遠い世界の顔の見えない企業ではなかった。自分の夫が毎日通う、その職場そのものだった。
その夜、帰宅するとリビングの明かりが点いていた。食欲をそそるカレーの匂いが部屋に満ち、珍しく夕食が整えられている。その日常の温もりは確かなはずなのに、心の隅で何かが静かに軋むような微かな違和感が拭えなかった。
パソコンに向かう夕梨花の姿は、まるで書類の山に埋もれているように見えた。彼女を取り囲む資料の城壁は彼女の仕事の世界と、俺のいるこの日常とを明確に隔てている。
「おかえり!」
俺の顔を見るなり、夕梨花が普段より数段明るい声で言った。だが、その目は俺の顔を一瞬捉えただけで、すぐに手元の分厚い資料へと戻っていく。
「ただいま。今日は早いんだな」
「んー、まあね。それより……」
彼女はそう言いかけて、一度言葉を切った。積み上げられた資料の山から、一枚のコピー用紙を抜き取ると、それをひらひらさせながら獲物を見つけた獣のようなジャーナリスト特有の目で、俺に笑いかけた。
「ねぇ、輝くん。あなた専門家でしょ。ちょっと聞きたいんだけど」
夕梨花は不意に、俺の職業を意識した言葉を投げかけてきた。彼女は疲れたように背もたれに体を預け大きく伸びをする。
「今、企業犯罪の心理みたいなものを調べてて。大企業のエリートみたいな人がさ、なんで横領とか不正に手を染めるんだと思う? やっぱりただのお金が目的なのかな。それとも、もっと別の、心理的な何かがあるのかなって」
あまりに抽象的な問いかけだった。俺はカウンセラーとして、教科書に書かれているような当たり障りのない答えを返す。
「プレッシャー、肥大した承認欲求、あるいは組織への過剰な同一化が歪んだ形で現れることはあるだろうな。『自分はこれだけ会社に尽くしているんだから、これくらいは許されるはずだ』というような特権意識が芽生えるケースも考えられる」
「ふーん、確か万引き犯も品物自体が目当てじゃない場合もあるって、こないだテレビで言ってた」
夕梨花は感心したように相槌を打った。
やがて、まるで獲物を追い詰めるように、彼女の質問はじわじわと、しかし的確に核心へと迫ってきた。
「たとえば、こういうケースはどう? 部署を完全に支配してるカリスマ的な部長がいて、その下にすごく真面目で、仕事にプライドを持ってる部下がいる。この二人が実態のない研修会社みたいなのを使ってお金を不正に動かしてる、みたいな。カウンセラーとして、そういう組織の空気ってどういう感じだと思う? 周りの人は気づかないものなのかな? そんな話聞いたことない?」
心臓が冷たい手で掴まれたように嫌な音を立てた。
偶然か? 偶然にしては状況が酷似しすぎている。木戸部長と佐藤。
夕梨花が描写する人物像は、俺がこの数日向き合ってきた二人そのものだった。
だが、そんなはずはない。
企業犯罪なんてどれも似たような筋書きなのだろう。
彼女はジャーナリストだ。こんな話はこれまで何十と見聞きしてきたに違いない。彼女にとって、ただの「ネタ」の一つ。俺が今、まさにその渦中で格闘している生身の人間たちのことだとは夢にも思っていないはずだ。
彼女は真実を追求するジャーナリストとして、俺に専門家の立場から意見を求めている。だが、俺は守秘義務という絶対的な掟に縛られた、何も語ることのできないカウンセラーだ。俺たちのそれぞれの職業倫理が、皮肉にも夫婦である二人の間に見えない壁となって立ちはだかっていた。
「クライアントの具体的な話はできないけど……どうだろうな。巧妙にやられれば、周囲は気づかないかもしれない。あるいは、気づいていても見て見ぬふりをするか。組織の力学の中では個人の正義感なんて簡単に押しつぶされるからな」
俺はなんとか平静を装って答えた。声がわずかに上ずったような気がした。
俺のそのどこかぎこちない反応を、彼女は探るような目でじっと見つめている。
やがて、少し表情を緩めたかと思うと、まるでこの話題はもう終わりだ、とでも言うように再び資料に視線を落とした。
「ありがと、参考にしまっす。まだ裏付けが全然取れてない、ただの匿名の投書だし」
その明るい口調に俺は内心、安堵の息をついた。だが、その安堵は次の瞬間、粉々に打ち砕かれることになる。
「でもね、一番興味深いのはその架空会社の名前。いかにも、って感じで」
彼女はまるで面白いゴシップでも話すかのように、楽しそうに笑いながら言った。
「『イノベート・フォワード・アカデミー』だって。笑っちゃうよね」
時間が止まった。
俺は思わず立ち上がり冷蔵庫に向かう。イノベート・フォワード・アカデミー。佐藤との面談で、木戸部長との面談で、俺の頭の中に深く、深く刻み込まれた禁忌の固有名詞。
それが今、この安全であるはずの俺たちの家のリビングでこともなげに妻の口から発せられた。
分離していた二つの世界が、暴力的な音を立てて衝突し融合する。呼吸が浅くなる。
「……輝くん?」
夕梨花の声のトーンが変わる。それまでのジャーナリストとしての響きではない。妻としての純粋な心配の色を帯びた声だった。
「どうしたの、急に黙り込んで。……顔色が、真っ青よ」
何かを言わなければ、と焦る。だが、言葉にならない。
「いや……」
俺はかろうじて声を絞り出した。それはあまりにも無力な言い訳のようだった。
「いや……すごい話だな、と思って」
「ふーん……」
夕梨花は短くそう呟いた。その声にはもはや何の感情も乗っていなかった。
彼女はゆっくりとパソコンの前に向き直った。やがて、部屋に再び規則正しいタイプ音が響き始める。
俺はその場に立ち尽くしたまま動けなかった。匿名の投書。それは、俺が信じてきた物語を外部から裏付ける「証拠」だった。俺の闘いは個人的な思い込みなどではなかった。社会が知るべき巨大な悪と繋がっていたのだ。
確実に言えることは、この投書は畠中さんをより危険な状況に追い込んだ。加害者たちは、会社全体を巻き込むような巨額な不正に手を染めている。それが今、外部に漏れた。
きっと彼らは躍起になって犯人探しするだろう。真っ先に疑われるのは……畠中さんだ。口封じのために彼らが、次に何を仕掛けてくるか分からない。
匿名……俺の頭の中で告発者は誰なのか、いくつもの仮説が組み立てられては消えていく。加害者側の仲間割れか? あるいは追い詰められた木戸部長たちが、誰かをスケープゴートにするために意図的に情報をリークしたのか? わからない。
いや、待てよ。また、遠野くんがコンプライアンス窓口に通報したように、いじめと不正の関連も全て知っていて最後の手段としてマスコミに……。
ぐるぐると巡る思考の中から、一つの可能性がふと浮かび上がる。
畠中さん……?
俺は即座にその考えを打ち消した。指先が白くなるほどハンカチを握りしめ、震える声で「私が我慢すれば……」と呟いた彼女の姿が目に焼き付いている。あんなに怯え、無力感に打ちひしがられていた彼女が、新聞社に内部告発するような大それたリスクを冒すだろうか? あり得ない。彼女はそんなタイプの人間ではない。だったら誰が……。
「どうしたの? 難しい顔して」
夕梨花の言葉で、俺は我に返った。
「いや……」
俺はケージのそばに寄り、フゥをそっと抱き上げた。腕の中の小さな温もりがこのどうしようもない現実の中で、唯一確かなもののように感じられた。
俺にはやらなければならないことがある。
畠中さんは今、たった一人でこの巨大な悪意と戦っている。職場での孤立。今度は、組織的な不正の暴露による報復。彼女は、俺が経験したことのないレベルの孤独と恐怖の中にいる。
胸の奥で昨日までとは比較にならないほど、大きく危険な闘志が燃え上がるのを感じていた。同時に、妻にさえ真実を話せない、深い孤独が全身を包んだ。




