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第11話

 午後の陽光が巨大な窓から斜めに差し込み、編集局の床に舞う微細な埃を照らし出していた。キーボードの乾いた打鍵音、時折響く内線の呼び出し、部屋の隅に置かれた警察無線が時折漏らすかすれた声。それらが重なり合い、低く途切れないうなりとなって空間を満たしていた

 ここは大手新聞社の社会部。インクと古紙、絶えず何かが起きる予兆のような緊張感が入り交じった独特の匂いがこの空間に張り詰めていた。

 仁木夕梨花は、その喧騒の中心で目まぐるしく動いていた。積み上げられた書類の山は、まるで彼女を俗世から隔てる要塞のようにも見える。彼女は今しがた書き上げた、大手物流会社の労基違反を追求する記事の最終稿を編集デスクのキューに送信したところだった。派手なスクープではない。だが、業界の資料を読み込み、従業員や関係者への地道な取材を何度も重ねて書き上げた渾身の一本だ。

彼女のやり方はいつも同じだった。明るく大雑把に見える性格とは裏腹に、情熱よりも理性を、憶測よりも物証を重んじる。人の怒りや涙に流されず、静かに事実を積み重ねていく。もう少し人間味があれば、と本人は自嘲するが、その記事は淡々としていながらも逃げ場のない説得力を持つと評判だった。

 ふと、凝り固まった体をほぐすように伸びをした彼女の視線が、デスクの隅に置かれた写真立てに落ちた。七年前の結婚式の写真。

屈託のない笑顔を浮かべる若い自分と、少し硬い表情で隣に立つ夫の輝。夕梨花は小さく息を吐く。言葉少なく自分の殻に閉じこもっていく夫。人の心を開かせるのが仕事のはずなのに自分自身は決して開かない。彼が何を考え、何に苦しんでいるのか、夕梨花にはもう分からなかった。

事実を追い、言葉で世界を切り拓く自分の日常と、人の内面に寄り添いながらも自分の心を語らない夫の世界。二つの世界は同じ屋根の下にありながら、決して交わらない平行線のように思えた。この隔絶感が彼女の心の底に滓のように溜まっていた。

午後の郵便物が届いた。


「仁木さーん! 郵便物です」


 インターンの大学生が、書類の束を彼女のデスクに無造作に置いた。大半はプレリリースやダイレクトメールの類だ。夕梨花は手慣れた仕草でそれらを仕分けしていく。光沢のある紙、派手なロゴ、計算し尽くされたキャッチコピー。しかし、その中に一つ、明らかに異質なものが紛れ込んでいた。

 何の変哲もない、A4サイズの白い事務封筒だった。差出人の名はなく、住所も記されていない。宛名のラベルは手書きではなく、冷たく無機質なゴシック体で印字されている。消印は都内の巨大な集配局のものだ。

夕梨花の手が止まる。新聞社には日々、匿名のタレコミや告発が山のように届く。そのほとんどは誰かを陥れようとする個人的な恨みや妄想じみた陰謀論だ。だが、これは違う。狂気や激情から発せられる手紙特有の過剰な装飾が一切ない。ラベルの正確な中央配置、折り目のない新品同様の封筒。ただ、一つの真実を内包しているように思えた。

 この手紙の送り主は、夕梨花のようなジャーナリストがどのような情報に価値を見出すかを正確に理解している。感情的な訴えは、まず「眉唾物」として弾かれる。しかし、冷静で客観的なデータを伴う告発は、その真偽を確かめるに値する、と判断されることを。

 夕梨花はペーパーナイフで慎重に封を切った。中には一枚のタイプされた手紙と、数ページにわたるスプレッドシートの印刷物が入っていた。手紙の文面は、ビジネス文書のように簡潔で感情を排したものだった。


社会部担当者様

 突然のご連絡、失礼いたします。

 私は株式会社ディープストラテジーに勤務する者です。

 これ以上、社内で行われている不正を看過することができず、筆を執りました。

 過去八ヶ月にわたり、弊社部長の木戸文也(きどふみや)と経理部課長の佐藤千夏(さとうちなつ)が共謀し、「イノベート・フォワード・アカデミー」という架空の研修会社を利用した詐欺行為を行っています。

木戸文也は上司としての立場を不正に行使し、柔軟性に欠ける部下の佐藤千夏を利用して、私的利益を得ています。

添付いたしましたのは、その不正な支払いを記録した社内台帳の写しです。

 身の危険を感じるため、匿名とさせていただきますが、どうか真実を白日の下に晒していただきたく、お願い申し上げます。

 

 夕梨花の表情が、職業的な懐疑的から鋭い緊張を帯びたものへと変わった。彼女の視線は、添付書類へと吸い寄せられる。そこにはスプレッド形式で「シナジーコンサルティング業務委託料」や「次世代リーダーシップ開発ワークショップ」といった名目で資金が動いている痕跡があった。夕梨花の頭の中で情報が高速で分析されていく。これは典型的な架空取引の手口だ。コンサルティング料や研修費といった成果物が目に見えにくい無形のサービスを装い、実態のない会社に資金を流す。まさに教科書通りの手口だった。請求書の番号、支払日、そして検証が難しい曖昧な難しい業務内容。数百万単位の多額の金銭が定期的に同じ会社に流れている。

 もちろん、この書類自体が捏造である可能性は高い。だが、もしこれが捏造だとしたら、作成者は企業犯罪の手口を熟知している人物だ。それだけでも、この情報源は単なる愉快犯や怨念による告発とは一線を画す。これは調査する価値のある信憑性の高い「疑惑」だった。


 夕梨花は書類一式を手に、社会部デスク、有持〔ありもち〕の元へ向かった。有持は、この道三十年のベテランで、その目は数え切れないほどのガセネタとスクープを見極めてきた編集の「門番」だ。誤報や名誉棄損のリスクから会社を守ることこそが、彼の最大の仕事だった。


「有持さん、これ、どう思いますか。匿名ですが少し気になります」


夕梨花が書類を差し出すと、有持は老眼鏡の奥から面倒くさそうな視線を向けた。


「匿名か。その手のものは99%、クビになった社員の逆恨みか、特定の社員への嫌がらせだ。時間の無駄」


彼は手紙と台帳にざっと目を通し、鼻を鳴らした。


「なんだ、この台帳は。いくらでも偽造できんだろう、こんなもの。動機は? 組織的な横領か? 取材のツテは? 裏とれんのか?」


 矢継ぎ早に飛んでくる懐疑的な質問に対し、夕梨花は冷静に論理的に反論した。


「ええ、偽造の可能性は分かってます。でも、注目すべきはこのパターンです。これは単なるデタラメな数字の羅列ではないと思います。典型的な架空請求のスキームに酷似しています。例えば、これなんかは二百五十万円もの支払いが四半期ごとに繰り返し出ています。コンサルティング業務であれば成果や工数に応じて変動があるのが普通です」


思いもかけず逆に捲し立てられた有持は、眉間に皺を寄せ舌を鳴らした。

有持の返答を待たず夕梨花は続ける。


「もしこれが偽物なら、作った人間は本物の不正会計がどういうものか正確に知っている。それだけで、これはただの嫌がらせの類とは質が違います」 


有持の様子を観察しながら、彼女は指で台帳をなぞりながら続けた。


「それに、名指しされているのはディープストラテジーです。業界大手ですよ。もしこれが事実なら、社会的な影響は大きい。調査をする価値はあります」


 有持は腕を組み、しばらく黙って書類を睨みつけていた。彼の懐疑心はジャーナリストとして当然の防衛反応だ。しかし同時に、夕梨花の指摘する論理的整合性と、ターゲットの知名度の高さはベテランである彼の嗅覚を刺激するには十分だった。


「……分かったよ。予備調査だけ許可する」


 夕梨花をじろりと見た後、有持は渋々呟いた。


「この『イノベート』なんちゃらの登記情報を洗え。証拠、しっかり掴むまではどこにも取材すんなよ。絶対にこっちの動きを悟られるな。もし罠なら、うちが片棒を担いじまうことになるからな」


 それは疑念に満ちた、しかし確かなゴーサインだった。


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